(1)視野と視点

 格調の高い文章に共通するある特徴に気付いたのは、ずいぶん昔のことです。「我が国を取り巻く経済情勢は…」「業界における近年の主要課題は…」「企業の経営に関する最も重要なことは…」など、筆者にはこれらに続く文章がいかにも高邁な論調を期待できると感じられましたので、長年、見よう見まねで企画書の出だしに利用してきました。格調の高さは、やや古典的な日本語の文章が持つ響きにあるのかもしれません。

 しかし、私が気付いた点は文章の響きとは異なることでした。それは格調の高さが文章を書く人の「物の見方」に関係しているというものでした。出だしの文章だけをまねしても文章全体のバランスが欠けることになり、出だしだけが浮き上がってしまうのです。もちろん、文章の響きを無視してよいと言っているわけではなく、それだけではだめではないかと言いたいわけです。

 では、「物の見方」とは何なのでしょうか。物の見方が良いか悪いかは、その人の視野と視点に関係していると思います。一般的に「視野を広く、視点を高く」と言われます。視野と視点には「視る」という字が共通しています。「視る」という字は見て示すという意味でしょうから、そのためには広く見る必要があるし、高いところから遠くまで見る必要があります。

 また、見た内容を人に示すためには情報を収集するだけでなく、収集した情報を分析して情報を解釈して、その結果を人に分かるように伝えなければなりません。解釈するということは考えることであり、言い換えますと「人に見えない物まで見る」ということにつながると思います。すなわち、事象を見てデータを収集し、そのデータを基に推論を重ねて「観る」というレベルまで思考を高める必要があると思うわけです。この「視野」と「視点」について、もう少し考えてみたいと思います。

 まず視野ですが、広い視野とは主として事実を認知する場面を想定した表現です。たとえば、60度の範囲の中で見えるデータを基にするよりも180度の範囲の中で見えるデータを基にする方がデータ量が多いわけですから、より緻密な推論ができることを示唆しています。しかし、視野が狭い人とは、必ずしも60度の範囲の中で見えるデータを基に論じる人のことを指しているわけではありません。誰が見てもすぐに気付くような、外見上のデータしか見ていないことを指していると思います。すなわち、単なる角度の問題だけではなく、観察眼にも問題がある人のことを指しているのです。

 一方、視野が広い人とは、180度の範囲の中で見えるデータを基に論じる人であるだけでなく、一見関連性がないように思われるデータを読み取って結び付ける観察眼を持っている人のことを指していると思います。60度とか180度という角度はあくまで比喩であって、本来は観察眼が鋭いことを意味しているものと解釈できます。では、観察眼を鋭くするにはどのようにすればよいのでしょうか。

 もう少し角度の比喩で説明を続けましょう。人は180度の範囲の中で見るためには、首を動かさなければならず、他人に示すまでに“視る”には注意深く観察することが必要になります。すなわちデータを読み取る能力を「注意深く“視る”レベル」から「観察しながら“観る”レベル」にまで高める必要があります。これはそれほど簡単なことではありません。なぜなら、人は自分が興味を持ったものだけを見る習性があるからです。さらに、見たものを認知するためには、時として専門外の知識も必要になるでしょうし、様々な事柄に興味を持つ遊び心も必要になると思うのです。観察するために必要な能力は、60度と180度の両方に共通していますが、やはり180度の方がより多くの知識と能力、さらには根気も必要とすることは容易に理解できるでしょう。

 次に視点ですが、高い視点とは、主として認知した事実を基に物事を考察する場面を想定した表現です。表面的な意味は、たとえば地上1mの高さから見える情報よりも10mの高さから見える情報の方が多いということですが、本来の意味は入手する情報量の多寡だけではなく、得られた情報を基にした主張そのもののレベルが高いことを意味します。レベルが高いとは、主張の根拠が高い位置にあることを指します。高い位置に根拠を置いた主張は、低い位置に根拠を置いた反論に堂々と対処できます。反論する側が、自らの主張の根拠が低い位置にあると気付くと、羞恥の心理状態に陥るものです。認知した事実を基に問題を形成し、予め仮説を用意して主張する時、その根拠を高い位置にすることができれば「物の見方」を高くできると思います。

 この後は、視点の高め方について考えてみたいと思います。