先月、三菱一号館美術館で開催されていた「もてなす悦び展」に足を運んだ。茶器を中心に、明治になって鎖国を解いた日本文化が、欧米に与えた影響を分かりやすく展示してあった。1990年前後のバブル時代の代名詞ともいえるティファニーの出発点は、日本文化の影響を受けた朝顔の器だったそうである。VISA誌7月号には、ルイ・ヴィトンのモノグラフは歌舞伎の小紋であるという市川染五郎氏のエッセイもある。アメリカ、ヨーロッパの二大ブランドのルーツが江戸文化とは感慨深いものがある。

 思えば、日本が台頭してきた1970年代から日本はモノマネで独創性が無いといじめられてきた。その際,ティファニーやルイ・ヴィトンの中核の人々は口をつぐんでいたのだろう。口をつぐんでいた人々を糾弾することが本コラムの趣旨ではない。逆に、江戸の文化をガラス器や鞄に展開した独創性を褒めあげたい。イノベーションとはモノマネである。

 産業では新技術、新機能を謳い上げるが、学問に身を置くものとしては懐疑的である。本当に例が無い独創的なものは過去からの流れに乗った社会では役に立たない。ワンストップサービス、クラウド、為替取引、モバイル。そんなものは、人類の歴史の中で繰り返されてきたイノベーション中に必ずルーツがある。繰り返すが、非難しているのではない。歴史に埋もれているものを掘り出し、現代風に提供することをイノベーションと褒め称えたいだけである。

 学問の要は論文である。いくつ書いたかが教員採用や昇進の大きな評価ポイントの一つになる。実は過去とつながりのない論文は学術誌に採用されない。「過去に例がない」、「当社独自の」などは産業界で良く使われるキャチコピーである。それは学問の世界では使えない。

 学会誌の論文はともかく、卒論、修論を書いた方は沢山いらっしゃるだろう。その際、参考文献についてしつこく指導されただろう。論文で使う言葉は参考文献に定義されているか、参考文献をベースに自分で定義しなければならない。プログラムと一緒で未定義語は許されない。だから、独創性の象徴でもある論文は参考文献の塊となる。先人の偉大な業績の上に、少しだけ独自の視点を乗せたものが論文である。そして、この少しだけの独自性の積み重ねが文化であり、人類の財産である。

 さあ皆さん,モノマネをしよう。掛け軸の朝顔をガラス器に、着物の小紋を旅行鞄に、ものづくりをソフトづくりに、密書を暗号化に、為替をクラウドに。赤ちゃんはモノマネをして言葉を覚える。モノマネを恥じては国際人にはなれない。モノマネ、モノマネ、モノマネ。モノマネの積み重ねが独創である。