島田 当時、家庭教師の時給は3000円。成功報酬もあったので、結構儲けさせてもらいました。2年生の時には、親に使用料を払って自宅の部屋を借りた。エアコンも取り付けてもらって、そこで複数の生徒を並行して教えられるようにしたんです。生産効率を高めると同時に、教えるノウハウも蓄積されて、引く手あまたでしたよ。

加藤 でも、ずっとその生活ではお医者さんにはなれないですよね。

島田 大学3年生なると、解剖学や病理学といった専門課程が本格化します。4年生まではかなり真剣に猛勉強しました。解剖室でスケッチして、その後に家庭教師に行って、また解剖室に戻ってくる。夜中に解剖室の横で寝ていることもありました。

 解剖学の教授は神経病理学の世界的権威でオーラが違いました。そのすごい先生が自ら講義をしてくれる。高価な教科書を買って、ノートを取るためのモンブランの万年筆を買って、サボり癖があるから絶対に出席すると決めた。

加藤 そのころですか。外科になると決めたのは。

島田 いや、違います。大学5年生になると、またサボり癖が出たんです。医学部は4年生までに基礎の勉強が終わって臨床が始まるのですが、当時は世界が何となく不穏だったんですよ。1980年代後半のことです。世界を見たいと思ったので、ひたすらお金をためて夏休み前後の2カ月間でソ連に行くことにしたんです。初めての海外旅行でした。

「西方見聞録」で体験したこと

加藤 ソ連が崩壊し、ベルリンの壁が崩れる直前ですね。

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島田 旅を「西方見聞録」と名付けて新潟からナホトカに渡り、シベリア鉄道に乗りました。共産圏だったので、万が一のときのために学長にお願いして、英国の大学教授への紹介状を書いてもらいました。履いていたリーバイスのジーンズやTシャツなどを売りながら旅を続け、ルーマニアやブルガリアにも足を伸ばし、冷戦後の内戦などで今はもうない街を見聞したりもしました。

加藤 貴重な経験ですね。日本人は簡単に入国できたのですか。

島田 そんなことはありません。監視付きですよ。ソ連にいる間は、常に通訳や運転手が付いて、どこに行っても誰かが私に張り付いていた。たまたま、ソ連で監視がいなくなったフリーの時間があったのですが、その時は物取りに自動車で拉致されましてね。「ステューデント」「ノーマネー」と片言の英語を叫んで事なきを得たなんていう体験もしました。

加藤 無事でよかったですね。でも、夏休みとはいえ、2カ月も出かけて大丈夫だったんですか。

島田 帰国後に学生部長に呼び出されました。夏休み前後の試験を受けていなかったからです。それについては、追試ということで何とかなった。でも、医学生は夏休みに公衆衛生学という講義で、外に実習に行くことが必修なんですよ。それをすっかり忘れていた。

 公衆衛生学の教授は有名な先生で、発明家でもありました。膵管内視鏡という機器や、それを使った手術手法を開拓した人物です。その教授が激怒しているというじゃないですか。呼び出されて「何で実習に行かなかったんだ」と聞かれた。

 「実習があることを知りませんでした」「はぁ?」「申し訳ありません」「何をしとったんだ」「実はソ連に行ってました」…というやり取りをすると「何? それはおもろいな。みんなの前で発表しなさい」と。