家庭教師で蓄えた資金で自宅を改造し、4人を同時並行で個人教授できる環境を整えた。進学塾の経営者さながらである。「特に男の子は、まず人格を否定するぐらい徹底的に一からやり直させて鍛える。その方が、将来ずっと伸びるんですよ」というのが持論だ

島田氏が立ち上げたベンチャー企業のYANCHERS(ヤンチャーズ)による、LED照明を使った清水寺のライトアップの様子
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 現在は外科医であると同時に、教育者として医師を育てる立場にあるが、学生の懐に飛び込み、体当たりで人材を育てる基本は、この頃の経験で培ったのではないか。稼いだお金で島田教授は250ccのオートバイを買い、日本中を旅行した。ワンゲル部に入り、山にも行った。北海道にも足を伸ばしたし、中国地方を一人で回ったこともあった。

 そんな生活をしながらも、ギリギリのところで巧みに大学2年生までの教養課程を修了した島田氏だが、それを続けられるほど医学部は甘くない。3年生では解剖学などの専門分野の講義が始まる。そこからは、しばし勉強の虫に変貌する。切り替えの早さは天賦の才なのかもしれない。著名な解剖学の教授の講義では、わざわざモンブランの万年筆を新調してノートを取るほど気合を入れたらしい。

 結果、成績はトップクラスに躍進したものの、大学5年生になるとまた脱線の兆しが出てきた。時代は、1980年後半の冷戦末期。世界が何となく不安定な時期だった。島田氏は、日本を出て世界を見てみたいと強く思い、実行に移した。その行き先が普通ではない。「西方見聞録」と名付け、新潟からナホトカに渡り、シベリア鉄道で欧州に向かった。ソ連や東欧はまだ共産圏だった時代で、監視付きの旅行だったはずだ。ルーマニアやユーゴスラビアを見聞し、イタリアに抜ける旅に夏休み前後の2カ月間を費やした。

世界平和は公衆衛生に貢献する

 帰国すると現実が待ち構えていた。夏の試験はすべて落とし、冬は追試に追われる。だが、必修である夏休みの公衆衛生学の実習だけは、どうしようもなかった。実習の現場に行かなければ、単位は出ないからだ。

 だが、公衆衛生学の担当教授が何とも大物だった。島田氏が実習に出られなかった理由を聞き、旅先で撮影したスライド写真を使った報告会を開かせ、島田氏のプレゼンの後でこう言ったのだという。

 「どうだ、島田。平和は大事だな。世界平和は、子供の健全な発育という公衆衛生に貢献する重要な観念だよ」

清水寺のライトアップに使ったLED照明
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 このひと言で、島田氏の単位取得が決まった。当時から京都府立医科大学は「異端を許す風土」に満ちていたらしい。6年生の夏にも、同氏は例外を認められる。当時としては珍しい学生の出稽古を許された。東京・築地の国立がんセンター(現・国立がん研究センター)に2週間の研修に送り出してもらったのだ。

 実は、当時の府立医科大学では肺ガンの手術をほとんど実施していなかった。大学の講義でこれから肺ガンが増えると聞いた島田氏は、呼吸器外科の実像を学ぶことを強く嘆願した。その結果、出稽古を許された島田青年には、研修先の国立がんセンターで会った医師たちがブラック・ジャックさながらにかっこよく見えたらしい。この経験が、呼吸器外科を専門にすることを決める契機になった。

 医師になった島田氏は、大学病院や明石市立市民病院で外科医の道を進む。医師になって7年目に大学院に入り、1997年に博士号を取得。大阪府済生会吹田病院を経て、府立医科大学関係者が「北の病院」と呼ぶ京都府立与謝の海病院に異動した。これが大きな転機となる。

 2002年5月に本校に戻るまでの3年あまり、時間を見つけてはかねてから強い興味を持っていた工学を学ぶため、京都大学の工学部に通い続けた。

 キッカケは手術での失敗体験だ。極めて小さい腫瘍はベテランでも位置を特定しにくい。診断用の画像には写っていても、実際に手術してみると位置が分からなくなる場合がある。切除した部分が実は腫瘍ではなく、再度の手術が必要になることもある。この課題を解決するため、微小な磁石と磁気センサを組み合わせて、手術中に腫瘍の位置が分かるようにするシステムを開発したいと考えたのだ。