材料科学の専門家として、スライドリングマテリアルの可能性の大きさを熟知していた原さんは、経営者としての経験は無かったが、自分の手腕で事業化を進める決意を固めた。控え目な性格の原さんは同社の社長就任について、あまり大言壮語なことは語らない。大学発ベンチャー企業の中で、材料系を事業化する企業は実際にはかなり少ない存在であるため、スライドリングマテリアルを実用化し、アドバンスト・ソフトマテリアルが企業として成功することは、大学が産みだした研究成果を社会に還元し、社会貢献になることを実証すると、原社長は信じてやまないのだが。

 原社長は、新材料が実際に製品に採用されるまでは時間がかかることを覚悟していた。大学発ベンチャー企業の中では、材料系の企業はあまりないだけに、その成功は大学発ベンチャー企業の可能性を広げるという意味で、大きな意義があることを、日ごろの会話の言葉の端々の中で伝えているようだ。

 大学発ベンチャー企業の経営陣の中で、博士号を持つ取締役はある程度はいる。多くのケースは、その特許の基になった“発明”を産みだした研究室の出身者が多く、研究開発を担当する取締役が多い。例えば、アドバンスト・ソフトマテリアルでは、趙長明取締役は伊藤研究室を経て、創業時に就任した方だ。

 これに対して、大学発ベンチャー企業を産みだした大学の研究室以外から、博士号を持つ人物が経営陣にスカウトされるケースは日本ではあまりない。こうした点で、原社長の就任は日本の大学発ベンチャー企業にとっても、博士号を持つ部外者が就任するというキャリアパスの前例をつくったという点で注目されるケースになっている。

複雑な混合物である塗料にスライドリングマテリアルを応用

 アドバンスト・ソフトマテリアルが実用化を進めてきたスライドリングマテリアルの採用第一号は、日産と共同開発した傷復元性を持つ機能性塗料だった。2009年11月に、同社と日産は「NECが機能性塗料を携帯電話機『N-03B』に採用し、2010年1月からNTTドコモが発売する」と発表した。

 この時の経緯も企業秘密が多く、「まだ明かせないことが多い」と原社長は語る。アドバンスト・ソフトマテリアルの創業前から、伊藤教授は日産とスライドリングマテリアルを応用した傷つきにくい塗料の共同開発を進めてきた。実際に採用されるまでに時間がかかった理由は「塗料は複雑な混合物で、各社の塗料はそれぞれ異なっている。その中にスライドリングマテリアルをどう組み込みかという点で苦労した」と、原社長はいう。塗料とは何かを塗料メーカーから共同開発を通じて学んだようだ。また、塗料も自動車車体向けと携帯電話機向けではかなり仕様が異なるために、その擦り合わせにも時間がかかった。

 現在、アドバンスト・ソフトマテリアルの取締役を務める山中雅彦さんは、以前は日産で車体用の塗料開発のリーダーを務めていた人物だ。スライドリングマテリアルの魅力に魅入られて、同社に移籍したようだ。ベンチャー企業に貴重な戦力が加わった事例である。