飯塚さんは、東京大学大学院を修了し博士号を獲得後に東芝に入社した。同社では半導体の設計などを手がけた。多くの特許を書き、その報奨金を受け取る優秀な社員として活躍した。1980年から81年の約2年間にわたって、東芝から米国のヒューレッドパッカードのIC研究所に派遣され、当時のカリフォルニア州のシリコンバレーで、腕に自慢の技術者がベンチャー企業が次々と創業し、活躍するのを目にした。東芝に戻って、半導体技術研究所のLSI開発部の部長を務めていた時に、「仕事の大部分がマネジメントになっている事実に気が付いた」。この当時、たまたま兄弟で始めたサイドビジネスがうまくいき、創業する資金が手元にあった。日本はまだバブルの中にいて、「浮かれるように創業した」と表現する。「東芝で部長としてマネジメントの仕事を果たすのも、ベンチャー企業を経営してマネジメントをするのも同じだ」と感じのが創業に至った動機のようだ。

 つくば市で一人で創業したザイン・マイクロシステム研究所は「マーケッティングの点で失敗だった」と、当時を振り返る。半導体設計などのコンサルティングを手がけたが、クライアントは、交通が不便なつくば市までは足を運んでくれなかった。その半面、大手電機メーカーなどのクライアントにコンサルティングの仕事を提案に出かけて行くと、小さな会社として「足下を見られた」という。この結果、相談され依頼された半導体設計のコンサルティングだけを手がけるビジネスモデルに切り替えた。待っていても半導体の設計を依頼するだけの名声を東芝で確立していたのが、効いたようだ。

 1992年6月に韓国の三星電子との合弁会社として、ザインエレクトロニクスを東京都中央区で創業した。実は、つくば市のオフィスでの賃貸契約を残し、賃貸費を数カ月分支払いながら、クライアントと打ち合わせがしやすい東京に進出した。この時に合弁会社を設立したのは、「資本政策としてだった」と動機を語る。その後、いろいろなクライアント企業から半導体製品の企画や設計を受注しやすくするために、合弁会社形式を止めるために、三星電子の持ち株を買い取ることで“独立”した。

 ザインはベンチャー企業として戦略を明確に立案し、会社の資源を集中させてきた。1998年には戦略市場をLCDなどのフラットパネル・ディスプレーと定めて大成功し、2004年には戦略市場を携帯電話機とその基地局に、2005年には自動車と絞った。同時に、2000年には海外展開に力を入れる、2001年には地域展開に力を入れ、各地の優秀な人材とアライアンスを組むなどの戦略も立てた。地域重視という意味では、京都市に京都デザインセンターを、北九州市に九州デザインセンターを設けている。また、台湾と韓国にも拠点を設けて、国際市場での事業に対応している。ベンチャー企業だけに、事業分野や形態で選択と集中を的確に実施し、経営資源と人材を的確に投入することを実践し続けている。この辺が、日本の既存の大企業にはできないことである。

優秀な人材確保が最大の課題だった

 創業当時からの最大の課題は優秀な人材の獲得だった(飯塚社長は「人財」と呼ぶ)。創業当初は、例えば東芝を辞めた元技術者をスカウトするなど、「人材確保に苦心した」という。クライアントを満足させる半導体製品を提案し、企画・設計して品質保証ができる優秀な人材は、単なる設計技術者ではなく、クライアントがほしい半導体製品の仕様をまとめ、設計データを渡すファンドリーを選び、工程全体を考えて製品価格を決め、品質保証をするという一連の工程をマネジメントする能力が求められる。こうした工程全体を設計でき、事業化できるマネージャー(プロデューサー)能力を持つ人材を採用してきた。