火の神様として稲荷をまつっている鋳物の工房は今でも多い。しかし、そういった昔ながらの信仰が残る一方で、工業製品の品質が大幅に向上した結果、わずかなぶれが味ではなく単なる不良としてしか見られなくなっても来ているようだ。鋳型を意識的に湿らせて、鬆(す)と呼ばれる荒れた表面を出す処理を行ったりもしている大西も、現代の誤差の極端に少ないものを求める考え方や見方は十分に意識している。

 例えばこの後、作品によっては「羽落ち」とするため、突き出した羽をあえて鎚で叩いて割っていく。その破れた姿が釜全体に独特の雰囲気を与えるのだが、時として、叩き方がうまく行かず穴が開いてしまうこともある。ところが、昔のものの中には、強く叩きすぎて貫通した痕跡があっても、割れの力強さを優先してそれでよしとした作品が数多く見受けられるそうだ。

鋳型から取り出した釜を火を起こした木炭の中に入れて、一定時間赤める。焼きならしと同じ効果で、鉄の靭性が上がり割れにくい釜となる。(写真:大西清右衛門美術館提供)
鋳型から取り出した釜を火を起こした木炭の中に入れて、一定時間赤める。焼きならしと同じ効果で、鉄の靭性が上がり割れにくい釜となる。(写真:大西清右衛門美術館提供)

 しかし、現代の大西が羽落ちで貫通させればそれは「おしゃか」になってしまう。一つひとつの釜の精度が上がったことは誰にとっても喜ばしいことには違いないが、欠陥を大きく凌駕する圧倒的な魅力を持つ傑作、というものが生まれにくくなってきているのも事実だろう。これは釜の世界に限らず、多くの工芸の世界にもあてはまる現象かもしれない。

 ただ、その状況に甘んじることなく大西たちは、先人たちが産み出した、傑出した名品の数々の写し(模作)を手がけ、現代に再現させようという試みも続けてきている。その幸福な結果のひとつに夜学釜の復元があるが、この鋳型作りには、大西たちも多いに悩んだそうだ。

 名人とされる二代目大西浄清の手による夜学釜は、鶴首型の釜に丸釜のシルエットを重ねたような特異な形状をしている。その薄く巨大な把手のような曲線部分を、後から溶接するなら簡単なのかもしれないが、オリジナル通りに一体成形しようとすると、鋳型作りが難しい。その方法を大西たちは何度も繰り返し試して、二つの型を積層させるような格好で成功させたそうだ。

 鋳型だけでなく、素材となる鋳鉄も様々な試行錯誤を繰り返してきた。もともと、釜師をはじめとする過去の鋳物師(いもじ)たちは、原始的な構造の甑炉(こしきろ)を使い、温度計なしで湯面を見て温度を感知するなど、経験と勘に基づいて操業しつつ、釜や鋳物に適した和銑を作り上げてきた。鋳物の原料になる鉄は和銑と洋銑に大別できるが、たたらで砂鉄を原料にして作られた和銑は炭素がセメンタイト化した白銑で、硬く腐食しにくい。一方高炉で作られた洋銑は、炭素が黒鉛化したねずみ鋳鉄である。たたらの操業自体が基本的に一カ所のみとなった現代において、和銑は貴重な素材となっている。