二代大西浄清作「狩野探幽下絵 雲龍地文鍋ノ釜」
二代大西浄清作「狩野探幽下絵 雲龍地文鍋ノ釜」

 「侘び」「寂び」は、現代にあっても日本人の美意識を特徴づける大きな要素となっており、そのエッセンスを詰め込んだ一つの世界が茶道ということになるのだろう。そこで使う道具は「侘び」「寂び」を体現するために選び抜かれたものばかり。茶の湯の釜などは、その典型例。茶道具としての釜は単に湯を沸かすための道具ではなく、鑑賞の対象として重要な位置を占める。人々はその、時を経て錆び、枯れた鉄肌の風情、つまりその朽ちゆく様をめでるのである。

 桃山時代の伝説の茶人、ノ貫(へちかん)は手取り釜(取っ手のついた釜)一つで湯を沸かすのも飯を炊くのもまかなったと言われる。釜は茶の湯のために生まれてきたものではなく、そもそもは人々の生活に密接に関わる道具だった。普段から頻繁に使うから、どうしても傷んでくる。それでも、材料が貴重だった時代には簡単に捨てられることはなく、鋳掛け(溶接法の一種)や底の張り替えなどによって修繕しながら、長い年月、大切に使われてきたのである。

三代大西浄玄作「透木釜」
三代大西浄玄作「透木釜」

 そうやって使い続けることで現れてくる錆や荒れなど、釜の朽ちた様子を面白いと感じたのは、千利休に代表される室町後期から江戸初期にかけて登場した茶人たちだった。彼らは侘び茶を提唱し、生活雑貨であった釜から美を抽出し、それをもって「鉄の美術品」の域まで高めてみせたのである。

 そもそも鉄器が日本で使用されるようになったのは縄文末期からという。その後、中国から技術者たちが繰り返し訪れ「たたら製鉄」を伝え、製鉄技術が全国に広まったこともあり、古墳時代には既に、刀剣等に鉄が使われるようになった。しかし、その頃に湯を沸かすために使われていた道具は、土器の瓶や壷が主だったらしい。

五代大西浄入作「海松貝地文四方覆垂釜」
五代大西浄入作「海松貝地文四方覆垂釜」

 鉄製の釜が本格的に登場したのは、奈良時代のこととされる。当時は大量の砂鉄と木炭を必要とする鉄はかなりの貴重品だった。そのため、鉄の用途は神事用の道具などに限定されていたようだ。初期の釜は、寺院の湯屋(沸かし湯で身を清める場所)で湯を沸かす際などに使われていたとの記録がある。

 貴重であっても釜は、土器に比べ熱伝導率も耐久性も良くはるかに便利である。時代を経るに連れ、粥を炊くためなどに多目的に使われていくようになるのは必然だった。釜が生活道具として普及していくのと前後して、鉄製の鍋も生活用品として、次第に普及していく。そして、鎌倉時代には、鋳物師(いもじ)の集団が各地に根を下ろし、鋳鉄を溶かし鋳型に流し込み、梵鐘(ぼんしょう)から生活用の鍋釜まで作り出すようになっていった。