恐怖を感じるときに活動する扁桃体は、脳の組織の中でも比較的古い部位である。人間の脳の中には生物の進化の歴史が詰め込まれているが、扁桃体は大脳辺縁系に属し、そこは「原始的な哺乳類の脳」だと考えられている。つまり、扁桃体は、原始的な哺乳類の時代から天敵などの危険に遭遇したときに活動し、それを記憶し、次に天敵に遭遇したときには激しく反応して、身がすくんだり冷や汗が出ると言った恐怖反応を引き起こして身を守ってきた。

 その後進化の過程で獲得した新しい脳である大脳新皮質でも恐怖の情報は記憶されるが、その記憶は薄れるようにできている。「パニック発作」という恐怖感に襲われる症状に悩まされる人がいるが、本人にとっては何がきっかけで発作が起こるか分からないという特徴を持っている。それは、「低次脳(注:扁桃体などの古い脳)が『危険』と叫んでいるのだが、高次脳(注:大脳新皮質などの新しい脳)は記憶が薄れてしまって何が危険なのだか思い出せない」状況だと説明されている(廣中直行著『快楽の脳科学』NHKブックスp.167)。

 何が原因か分からない恐怖感は、さまざまな心の病にも関係しているという。こうした辛い状況にある人に、スビンダル選手がやってきたことは一つの希望を示しているのではないか。

 さらに思ったのは、恐怖感があるほど、それを克服したときの達成感は大きくなるのではないか、ということだ。逆に言うとその達成感が大きいことが、恐怖感に立ち向かうという原動力になっているのだろう。スビンダル選手の「あまりよくないことでも、成長するチャンスだと思う」と言う言葉はそれを示唆しているように思った。

 扁桃体という原始的な脳がもたらす恐怖感は、原始的な生物から進化してきた人間の宿命のようなもので、なくすことは難しい。それを前提にしてどうコントロールするか、ということがビジネスでもプライベートでも人間活動の様々なシーンでいえることなのかもしれない。

 オリンピックスポーツという限定された領域の中ではあるが、ダウンヒルに挑む選手達には古い脳と新しい脳が協調する一つの理想形を見ることができる、ということなのだろう。

 バンクーバーオリンピックの男子滑降は2月13日(日本時間2月14日)に開催される。

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記事掲載当初,3ページ目の第2段落で「通常は視覚情報は頭頂連合野にしか送られなくなる」としていましたが,「側頭連合野にしか」の誤りでした。お詫びして訂正します。本文は修正済みです。