例えば、滑降中のスビンダル選手の目に注目すると、1分間に1回しか瞬きをしていなかった。人間は通常1分間に20回瞬きする。1回瞬きすると、3/100秒間の視覚情報を失う。瞬きする分だけ危険度が増す。同選手は集中力を高めて瞬きを極力少なくして、自分の周りで起こっていることをすべて把握しようとしていた。

 さらに、恐怖との戦いは脳の活動にも表れていたという。視覚情報は脳の中でも側頭連合野と頭頂連合野という部位に伝えられて判断される。側頭連合野は見た物体が何であるかを特定する部位、頭頂連合野は物体と自分との刻々と変化する位置関係を理解する部位である。時速160kmもの高速の状況になると、通常は視覚情報は側頭連合野にしか送られなくなる。しかしスビンダル選手の場合は、頭頂連合野にも情報が送られていた。こうして、コースやゲートとの位置関係を瞬時に理解して、高速で滑り続けられるようになったのである。

 スビンダル選手の脳を調べた脳科学の専門家は、「(スビンダル選手は)恐怖に囚われたくない、自分をコントロールしていたいと強く考えたのでしょう。その強い思いが頭頂連合野の活動をうながし、恐怖を押さえ込もうとしているのです」と見る。

 つまり、結果としてスビンダル選手は通常の人間よりは強化された脳を作り上げたわけであるが、それを可能にしたのは、事故によって湧き上がる恐怖感を押さえ込もうという強い思いや努力であった。きっかけは事故だったようだ。スビンダル選手はこう語る。

「極限の状況を経験することは、それが仮にあまりよくないことでも、成長するチャンスだと思う。アップダウンのある人生の方が速く成長できる気がします。僕は、あの大事故でたくさんのことを学んだのだと思います」。

 このスビンダル選手の言葉や行動は色々な意味で示唆深いものであるが、一つ筆者が注目したいのは、心の奥深くに刻まれたトラウマであっても人間の意志の力でコントロールできる可能性を身を持って示したという点である。

 そのコントロールのポイントは、トラウマの原因になるべく近づくということのようだ。スビンダル選手があえて事故を起こしたコースを復帰戦に選んだように、恐怖心が発生した根源にさかのぼることによって、恐怖心が起こるメカニズムに迫る。または、トラウマの根源から逃げてどこからともなく恐怖心が沸いてくるよりは、正面からトラウマに向き合う方が克服の道筋が見えてくるということかもしれない。