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図1

 湿らせては干し、糊を塗っては乾かし、何枚もの紙を重ね、加湿と乾燥を繰り返しつつ強く軟らかく、しかもまっ平らな1枚の紙のような状態にしていく。これが表具づくりの基本プロセスである。この作業で肝心なのが温度や湿度との折り合い。京表具が発達した理由の一つにも気候条件が挙げられるという。盆地だから風は弱いが、夏は猛暑で冬は底冷え。季節によって温度差が大きく、湿度は比較的高い。この条件が、表具づくりにも重要な働きをしているらしい。

 昔の表具づくりでは、総裏打ちの後の仮張りの状態のまま、この寒暖差の大きい京都の四季をまるごと体験させ、安定した状態に仕上げたのだという。だが時計の進み方が速い現代では、そこまで辛抱強く待ってくれる注文主はまずいない。時間の余裕がある時でも数カ月、ものによっては1カ月ほどで納めなくてはならない場合もある。北岡の工房も例外ではない。季節や気候にかかわらず、仕上げをせかされることもある。あるときはストーブを焚き、あるときは除湿機をフル稼働させ、その注文に応じてきた。

図2

 けれどもそれはあくまで「非常手段」であって、基本は今でもお天気任せ。雨の日には雨の日に適したこと、晴れた日には晴れた日にしかできないこと、こうして季節や気候と寄り添うように作業を進めていくのである。

 だから、気温や湿度には敏感になる。その北岡によれば、温暖化の影響か、以前のような「京の底冷え」は近年感じられなくなったが、夏の暑さは年々厳しくなっていくという。とりわけ盆地特有の蒸し暑さは、何年暮らしても慣れることがない。鈴鹿山脈を見晴らす温暖な伊勢平野、「鈴鹿おろし」のからっ風に吹かれて育った北岡英芳が、生まれ故郷との違いを一番感じるのも、そんな時である。

図3

 父は三重県伊賀上野市在住の表具師で、その次男として北岡は生まれた。その彼が父と同じ表具師になろうと決心したのは10代の終わり、サラリーマンになって間もないころのことである。子供のころから父の仕事を手伝ってはいたが、それまで表具というものに格別興味を引かれたことはなかった。家業は四つ違いの兄が継ぐことになっていたし、それで構わなかったのである。体が大きい方だったこともありスポーツが得意で、高校生時代はバスケットボールに明け暮れた。強豪チームを擁する地元の企業に就職し、好きなバスケットボールを続けるつもりでいたのだ。

 思惑通りに、高校を卒業と同時に就職する。しかし勤め始めてしばらくたったころから、新しい生活に疑問を感じ始める。ときは昭和40年代なかば、高度成長期のまっただ中である。そんな時代に新社会人となった彼を待ち受けていたのは、企業の歯車としてただひたすらに働き、出世の階段を仲間より半歩でも早く上っていくための競争に追われる毎日だった。しかし、周りを見渡せば大卒で就職したものがほとんど。とうてい出世は望めそうもない。