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平櫛田中筆『福』(幢補三段表装)。
平櫛田中筆『福』(幢補三段表装)。

 ある住宅会社が2007年に実施したアンケート調査によると、住空間に和室を求める首都圏在住者のうち、「床の間」を必要とする人の比率は30歳代では2割にも満たなかったという。特に和室に対する思い入れのない人なら、なおさらだろう。実際、すでにある自宅の床の間が、物置や格好のテレビ置き場になっているなどという風景にしばしば出くわす。

 伝統的な暮らしの良さ、和室の快適さを見直そうという声が高まり、新築住宅にあえて和室を設える人たちは絶えない。けれども、こうした人たちにとっても、床の間は不可欠のものではなくなってきたのかもしれない。

 かつて日本の多くの家屋は木造で、座敷には大小を問わず床の間が設けられていた。そこに、季節や場の演出に適した掛軸を掛け、花や香炉などを飾りつけ、室内を美的に彩った。

伊藤小坡筆『立雛』(幢補三段表装)。
伊藤小坡筆『立雛』(幢補三段表装)。

 調度の少ない和室にあっては、そこに一幅の掛軸が掛かるだけで部屋の空気が一変するのである。正月には春をことほぐ書画を掛けて鏡餅を供え、来客がある時は季節や客の好みに応じた軸に掛け替えてもてなし、生活の折々に大切な役割を果たして、日本特有の暮らしの美意識を紡いできた。

 その床の間が消えようとしている。たぶんそれと一緒に、季節や状況に応じて書画や花を飾り、場を演出するという日本的な生活習慣も衰退していくことだろう。

 もう一つある。その副作用として、床の間とは切っても切り離せない「掛軸」の需要が減っていくことだ。モノとしての掛軸が忘れ去られるようになれば、それを作る「技」もまた滅びていくことは必然なのだろう。実際、需要の減少、価格低下とそれに伴う技術の劣化、後継者不足と、掛軸の作り手である表具師にとって、状況はかなり厳しいものになっている。

図3

 掛軸はずっと日本人とともにあった。そう言えるほどその歴史は長い。やはり発祥は中国らしく、晋代(西暦280~420年)以前にはすでに存在したという史料がある(『歴代名画記』)。その形態は明らかでないが、まずは巻物(巻子本)が成立し、それを縦に見る形に変化させたものが掛軸として枝分かれして発展したというのが定説のようだ。北宋時代(960~1127年)にはすでに礼拝に用いるものとして、掛軸の名が見られるという。それが、持ち運びに便利で量産性に優れていたことから仏画の保存・掲示方法の一つとなり、仏教の普及とともに広まった。

 それが日本に伝わってきたのは飛鳥時代とされる。やはり最初は経巻(巻子本)のかたちで渡来したのであろう。掛軸を仕立てる表具の技術も、もとは経巻を仕立てる手法として仏教とともに伝わった。つまり、この技術は仏教にまつわる必需技術として日本に伝来し、それ以降、この国にどっしりと腰を据えてしまったのである。