その翌年には新作刀展に備前伝の刀を出品、文化庁長官賞を取った。特賞の中でも最上級に位置づけられている賞である。河内は、代表的な二つの流派の作刀技術を正統に身につけ、いずれの作風でも受賞する快挙を成し遂げたのである。しかも10年かかるかもしれない、と覚悟しての弟子入りだったが、隅谷からの許可が出て、1年半ほどで東吉野に戻ることができた。河内の情熱と執念のたまものだろう。
その河内を長年支えてきたのが、妻のあや子である。再入門によって河内の収入がなくなった間、パートに出て4人の子どもがいる一家の家計を支えたのも彼女だった。
「仕事手伝っていましたから、悩みは手に取るように分かりました。作品があがってこないし、焼入れなんかにしても、どんどん神経質になって、迷路に入っていくのが分かるんです。だから、環境変えた方がいいかなって」
当時のことを振り返るあや子は、結婚するまで日本刀のことはまるで知らなかった。大阪の市街地で育ったから、田舎暮らしも初めてである。それでも東吉野では、炭切りから向こう鎚に至るまですべて手伝った。そうしていくうちに、河内の最も良き理解者の一人になっていったのである。
だから河内の提案にも賛成した。金沢に家族そろって移ろうと。「相談もなしに」連れてきた子どもたちも、新聞配達などでサポートしてくれた。
「話を聞けば、さぞ大変だったろうと思われるかもしれませんね。でも私は楽しかったですよ。先生の仕事場も、河内のとはまるで違うので面白かったですし」
そうあや子は振り返る。流派のまるで違う師に入門し直すということで、あらぬ方向から風当たりも受けたであろう河内にとって、仕事を理解した上で、明るく物事に対処していく彼女の存在が助けになったことは想像に難くない。「まあ、家内が知っててくれるのは大きいわな」。ごく控えめな言葉で、河内は妻への深い感謝を表現する。
そんなあや子が結婚当初、手伝いを頼まれると「前の晩は緊張して眠れなかった」と述懐するのが「銘切り」の仕事だ。研ぎ師からの仕上げ研ぎが戻ってきてから行なう銘切りは、刀匠として最後の仕事となる。まず、全体に不具合がないかを確かめ、それが済んだら、茎(なかご)に鏨(たがね)で、刀や短刀なら指表(さしおもて:刃を上に差した時に外から見える側)に、太刀(たち)なら佩表(はきおもて:刃を下に佩いた時に外から見える側)にそれぞれ作り手の銘、その反対側には製作年月日などを刻み入れるのである。