玉鋼を和紙でくるんで、崩れないようにする。
玉鋼を和紙でくるんで、崩れないようにする。

「日本産の鉄で不思議なのは、鍛錬することで初めて成熟するというところです。こういった性質を持つ鉄というのは、世界でも例がないと言っていいのではないでしょうか。とにかく不思議な鉄です。最初は粘りが悪くても何度も折り返すうちにどんどんよくなっていく。玉鋼をそのまま使っても刀にはならないですね。でも、折り返し鍛えて成熟させていくうちに、刀にすごく適した地鉄になっていく」

 鈴木は、東京都刀剣登録審査員をはじめとする要職を歴任しつつ、戦後途絶えかけたたたら製鉄の復活に深く関わってきた。そして、たたら製鉄、それによって生み出される玉鋼の魅力と謎にがっちりと心を掴まれてしまう。以来、玉鋼の研究に没頭し、その成果によって博士号まで取得してしまうほどの熱の入れようだった。その彼をもってしても、未だに玉鋼は謎だらけの不思議な鉄なのだという。

水をかけて密着させた和紙の周りに藁灰をつける。
水をかけて密着させた和紙の周りに藁灰をつける。

 日本でのたたら製鉄は、5世紀から6世紀に始まったとされる。そもそもは大陸から伝わってきたものだった。しかしその製法は、日本の風土に合わせて次第に変化し、いつしか鞴(ふいご)で風を送りながら木炭で砂鉄を低温還元するという、日本特有の製鉄法になっていった。

 それから1000年以上の長きにわたって日本の鉄製品全般の素材を供給してきたのがたたら製鉄である。ところが江戸末期頃から洋鉄が流入し始めるや、たたら製鉄は徐々に姿を消していく。その後、溶鉱炉による製鉄法が本格普及し、刃物鋼などに使う「るつぼ鋼」などが輸入されるようになり、たたら製鉄の淘汰は加速していった。

藁灰の他に泥汁もかける。いずれも芯の部分までまんべんなく鋼を「沸かす」ための工夫。
藁灰の他に泥汁もかける。いずれも芯の部分までまんべんなく鋼を「沸かす」ための工夫。

 その大きな要因となったのは、たたら製鉄の量産性の低さである。品質だけでいえば、洋鉄が足元にも及ばないようなものができた。しかし同時に、箸にも棒にもかからないようなものも多くできてしまったのである。だから、手間のかかる選別、卸し鉄といった工程が欠かせない。使える素材を得るために、鍛冶たちは洋鉄の何倍もの手間をかけなければならなかった。そして、西洋式製鉄法が完全に定着した大正14年に至り、たたら製鉄は完全に消滅してしまったのである。

 安定して大量に供給される洋鉄、洋鋼は、近代の産業には欠かせない素材だった。だから他の製品は洋鉄に切り替えることも可能だったかもしれない。しかし、日本刀ばかりはそうはいかない。玉鋼を古来どおりの製法で鍛錬しなければ「折れず曲がらずよく切れる」日本刀の地鉄が生み出せないのだ。そのことを人々が再認識したのは、第2次世界大戦中に軍刀用として復活した「靖国たたら」が戦後解体され、再びたたらの火が消えてしまってからだった。

積み重ねた鋼の小片を沸かして鍛接する、積み沸かしの工程が始まる。
積み重ねた鋼の小片を沸かして鍛接する、積み沸かしの工程が始まる。

 戦後、刀匠たちは玉鋼のストックや、卸し鉄や自家製鋼で作った素材で作刀を続けてきた。中には、致し方なく洋鉄を使って作刀をするものもいたという。しかし、こうした方法には自ずと限度がある。古い玉鋼や和鉄を使い尽くしてしまえば、昔ながらの優れた日本刀は永遠に製作することができなくなってしまう。このままでは日本刀の伝統が消えてしまうのだ。それを憂えた有志たちが立ち上がり、昭和52年に「日刀保たたら」が操業することとなった。

 たたらが復活できたのは、関わった有志たちの情熱もさることながら、靖国たたら時代の村下(むらげ)二人が存命だったことが大きかった。たたら操業における技術伝承の勘所は、もっぱら口伝によるものだった。だから操業復活において、技師長にあたる元村下たちの存在は欠かせなかった。