プロ野球,東北楽天の野村監督がこんなことを言っている。
「勝ちに不思議な勝ちあり,負けに不思議な負けなし」。
たまたま勝つことはあっても,たまたま負けることはまずない。負けるには負けるだけの理由が必ずあるので,負けたときはその理由を煎じつめれば,そこから学べることも多い,というような意味だ。今回はこの言葉にならって,苦しい状況に置かれている日本の半導体産業も「負け」から勉強してみようじゃないかという趣向。以下,かなり昔からわりと最近まで,日本半導体の歴史を紐解く。

 1947年,ショックレーらがトランジスタを発明し,60年代は単体トランジスタからIC化の時代になった。日本でも60年代後半に米国から技術を導入してICの生産が始まる。70年代になるとバイポーラICからMOSICへと主流が移り変わっていく。ただし,当時の高速コンピュータはECL(emitter-coupled logic)というバイポーラICをCPUに用いていた。当時,MOSはNMOSが中心で,超高速動作には不適当とされていたのだ。日本はこの頃,米国や欧州と並んで主要な半導体生産国の仲間入りをした。

 80年代にはNMOSからCMOSへと大きな転換があった。CMOS化による低消費電力化と微細化による高速化によりCMOS LSIは今日の不動の地位を築く。用途も軍事機器や民生機器などの特定用途に限らず,汎用へと広がりを見せ,DRAMに代表されるように少品種・大量生産・大型投資の時代を迎える。この結果,ベンチャー中心で小資本の米国企業(当時)に比べ,総合電機メーカーで体力のある日本企業の投資力が勝り,日本メーカーが世界の頂点に立った。米Intel Corp.は戦略を転換し,DRAMを捨ててマイクロプロセサに集中することになる。1987年のことだ。

本当に「ジャパンアズナンバーワン」だったか?

 「日本メーカーが世界の頂点に立った」と書いた。厳密にはこれは正確な表現ではない。より正確を期すなら「日本メーカーは売上高で世界の頂点に立った」となる。たしかに,80年代の半導体業界を語るなら日本メーカーの台頭は外せない。売上高では1988~1989年には日本勢は世界の50%を占めた。製品の信頼性の高さについても,米Hewlett-Packard Co.がユーザーの立場から,日本製チップの信頼性が米国製のそれを大きく上回ると発表している。製品や技術の優秀さ,市場シェア(売上高)では間違いなく「ジャパンアズナンバーワン」だった。ところが物差しをちょっと変えてみると,日本メーカーは決して勝ってはいなかった。損益で比べると海外メーカーに遠く及ばなかったのである。

 日本メーカーが米国メーカーを利益率でわずかながら上回ったのは後にも先にも1985年と1989年の2年だけだ。この状況は基本的にずっと変わらない。業界が比較的安定していた2003年のデータでみると,Intel社や米Qualcomm Inc.,韓国Samsung Electronics Co., Ltd.,台湾Taiwan Semiconductor Manufacturing Co., Ltd.の利益率が25~40%なのに対し,日本メーカーは概ね5~10%である。

 日米それぞれの産業界に根付いた価値観の差が,この利益率の差を生んだのであろう。米国では企業は株主の利益を最優先すべしという考えが定着している。他方,日本では売上高の拡大が企業の目的であり,雇用の創出・確保が企業の美徳であるという考え方が主流である。どちらが正しくてどちらが間違っていると軽々には言えない。とにかく,企業に求められる役割が日本と米国では違っている。