「中国に行ってきてくれないか?」

 この物語の主人公である鈴木孝は総合電気メーカー「霜月電機」の入社3年目のエンジニアである。担当していた新機種のデジタルカメラの躯体設計の量産化が終わり,仕事が一段落ついたところだった。こういう時は自己研さんのチャンスだ。先輩エンジニアの仕事っぷりを注意深く観察したり,担当部品のサプライヤーを訪問して製造工程を見たり,技術部門から新技術開発の情報を聞いたり,情報収集を行うのにはうってつけの時期である。

 鈴木はふと購買部の田中の言葉を思い出していた。
「鈴木さん,いつか教えてくれよ。設計の役割って何なのか?」
一ヵ月前に田中と話をしていた時に投げかけられた言葉である。
 「エンジニアのプライドと役割か…」

 鈴木はいつも田中に怒られ,謝り続けながらも田中のことを慕っている。田中の言動には裏表がないからだ。
 田中が「以前,購買部はエンジニアから見たら一段どころか二段下に見られていた」と言っていたが,今はどうだろうか? 少なくとも鈴木はそうは思っていないし,こういう時期に自分の技術知識を高めなければならないという思いも田中の影響が大きい,と感じていた。
 最近では開発者出身の購買部員も増えているようだ。何でも「開発購買」なるものを推進するとの触れ込みで,結構な人数が購買部開発購買グループに異動している。鈴木の先輩の一人の前田も,2ヵ月前に異動したばかりだ。「最近,前田さんと話していないな。元気かな。どんな仕事やっているのかな。」

 「鈴木さん,ちょっと来てくれないか?」
 そんなことを考えているうちに,普段はほとんど話をしたこともない部長の島田から部屋に呼ばれた。
 鈴木は何だろう,と思いながら,部長の部屋に向かった。

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 島田部長の部屋には鈴木の直属の上司である課長の川根もいた。
 「鈴木さん,中国に行ってきてくれないか。」島田がこう言った。
 「えっ,中国ですか。それは突然ですね,いつですか」。
 「来週の水曜日から週末まで。隣の課の三田主任が行く予定だったのだけど,体調を壊して行けなくなったので代役だ。君一人で行ってきてほしい」。島田が続ける。
(マジかよ…)鈴木が口に出さずに思う。

 「うちと関係の深い四行商事ってしっているだろう。あそこ経由の話なんだけど,中国の電子部品メーカーの売り込みが来ている。ぜひ工場に来てくれ,と,かなりしつこいんだ。どうせ行かせるのであれば次世代の設計を担う若手がいいだろうと川根課長とも話していたんだ」。
(えっ,俺が次世代を担う人材か。まんざらでもないな。)
「川根課長から聞いたんだが,鈴木くんは中国に行ったことがあるんだろ。中国語もしゃべれると聞いたぞ」。
(あっ,そういうこと。まあ考えてみればねえ)「いや,中国は卒業旅行で2ヵ月行っただけで留学とか住んだ経験があるとかではないんですけど」。鈴木が答える。
「それでも訪問経験がある人とない人だと全然違うからな。あっ安心してくれ,四行商事の現地駐在員が随行してくれるから,何も心配しなくていいから」。
(何だ,結局部長の顔を立てるための出張じゃないか。)

 「スケジュールは空いているか。空いてなくても調整してほしいのだが」川根が鈴木に聞く。
 「まあ一応今のところ予定は入っていないのですが…」鈴木が答える。
 「じゃあ,頼むよ。とりあえず四行の営業について回っていればいいから」。
 「…はい。わかりました。」

 開発部が海外サプライヤーと会うことはよくあることだ。だいたいは今回の話のように商社経由か,購買部経由で紹介されるのだが,まれに直接コンタクトがあることもある。鈴木は先方の持っている技術が有益なものだと思ったら,できるだけ話を聞くようにしている。つい先日も欧州のある機構部品メーカーから直接売り込みの話が舞い込んできて,6月に会う予定にしていた。

 「まあ,いい機会か,中国かあ,懐かしいなあ。でも中国のどこなんだろう。確認するの忘れたけど。」

「今回の出張は何だったんだろう」