ウベアメリカで営業に奔走するジャック清水(清水和茂君)の活躍で,我々宇部興産の機械部門は,米フォード社のマイラン工場とサリーン工場からの射出成形機の受注に引き続き,ローソンビル工場から19台のダイカストマシンの受注を得た。フォード社からだけではない。その後,米GM社のロチェスター工場からも16台の全自動ダイカストマシンの受注を獲得した。

 ある日,私がニューヨークにあるウベアメリカのオフィスを訪れると,アフターサービスを担当していた阪本達雄君は,連日のデトロイト出張でバテ気味であった。これでは家族の方も大変だ。部下たちのこうした様子を見て,私は清水君と「我々も,いよいよデトロイトにサービス拠点を設ける必要があるのではないか」という話し合いを始めた。しかし,デトロイトと言えば,世にも有名な治安の悪い街である。そんな街にサービス員を派遣して,社員はおろか,その家族を危険にさらすわけにはいかない。まずは,社員と家族の安全の確保が重要だということになった。

 そんな折,私はサリーン工場などを訪問し,アナーバーという地に宿泊した。地図を広げて場所を確かめてみると,アナーバーはマイラン工場,サリーン工場,ローソンビル工場のいずれからも近い。デトロイト空港からもそう遠くはない上に,危険だと言われているデトロイトのダウンタウンからは離れている。主要道路は東西南北に通じており,市内にはミシガン大学があって,日本人も200人くらい住んでいることが分かった。デトロイトオフィスを開設する場所はここに決まった。後は,このオフィスに駐在する社員の人選である。

 清水君に相談すると,米国の工場への機械の据え付け指導に来ている浅上君が適任だと言う。ところが,本人に打診すると頑なに固辞し,「家庭の事情で勘弁してほしい」と首を横に振る。しかし,人選としてはほかにないと思った私は,帰国した後,なんとか彼の家族の了承を取れないかと,一度調べてみようと思った。ところが,浅上君のお兄さんは宇部機械製作所(宇部鉄工所から改称)に勤めており,簡単に連絡がついた。そこで浅上君の米国駐在について聞くと,「問題はない」と言う。では,奥さんの方の問題かと思って調べてみると,奥さんの叔父さんが宇部機械製作所の鋳造部門(現宇部スチール)の主任であった。この主任を訪ねて浅上君の米国駐在について聞いても「大丈夫です」という言葉が返ってきた。これでデトロイトオフィスのサービス員第1号が決定した。

 実際,浅上君が米国出張から帰国して家に帰ると,奥さんは「米国に住んでみたい」と言うし,親類からは「こんな名誉なことはないのだから行きなさい」と言われたという。実は反対していたのは自分1人だったというのが,後から浅上君から聞いた笑い話だ。この浅上君と,新婚の梅林君の2人で昭和59年(1984年)にスタートしたデトロイトオフィスも,今や独立した組立工場と多くのスタッフを持つ組織に発展した。今は冥土にいるジャック清水も喜んでいるはずだ。