あかりが家に戻って10年がたった。
あかりが家に戻って10年がたった。(写真:筆者)
あかりには夢がある。
あかりには夢がある。(写真:筆者)

 あかりは子供のころ、家を継ぐと言って大人を喜ばせたことがある。振り返ってみると、他愛もない子供の考えだった。うちは何でこんな家にすんでいるんだろう。大きくなったら、がんばって家を建てかえてあげたいな。そんなつもりで口にした言葉だった。

 高校を出るとき、文故に言われた。自分のしたいことをやりなさい。文故と同じ三人姉妹で、あかりは次女だった。もう長女は家を出て大学へ行っている。自分は、高知県内で医療関係の仕事に就こうと思った。就職率がいいと聞いた、高知市の専門学校へ入った。半年後、母が倒れる。激しい目眩や吐き気に襲われた。あかりは迷った。大学へ通う姉や高校生の妹と比べて、自分が一番家に負担をかけているのではないか。学校に相談したら、卒業しても県内で働くのは難しいかもしれないという。思い切って学校を辞め、家へ戻った。19歳。嫌になっても、いつでも出直せるだろう。それが、もうすぐ30歳。あっという間に10年たった。その後、母は倒れていない。

 あかりが夢を語ってくれた。「下の寺村の小学校が、休校になってるんですよ。あそこを借りて、うちの紙を展示したりできたらいいなあって。今、うちだとそういう場所がないじゃないですか。わざわざお客さんに来てもらっても見てもらえないし。あそこだと、グラウンドに車も止められるし、仁淀川も見えるし。そのうち、自分で紙を染めたりもしてみたい」。

 もちろん、一番は続けること。「ここまで残ってきた伝統は、やっぱり残したいですね。ここの景色も含めて、もったいないって思うんですよ。前にカナダに行ったとき、うちの紙を扱ってくれる女性に言われたんです。カナダには伝統がないって。いろんなところから来ている人がいるだけだって。日本にはそれがある。なくすのは、もったいない」。

 現実は厳しい。和紙づくりが盛んな近隣の高知県いの町で、廃業する家をいくつも見てきた。尾崎家も、誰かが倒れただけで立ちゆかなくなる。萱(かや)の簀をつくる職人たちも、いつまで続けてくれるものか。楮の供給も心配の種である。尾崎家はすべての楮を自給しているわけではない。全体の1/3ほどは、近くの農家に栽培してもらっている。高齢者なので、あと5年もしたらやめてしまうかもしれない。国や県が、楮の栽培の保護に乗り出すというが、はたから見ていると心許ない。本当に現場のことが分かっているのだろうか。「土佐楮クラブって、つくろうかと思っているんですよ」。自分たち若手の紙漉きが協力して楮づくりを守る。アイデアはある。例えば、リタイアした団塊の世代の人に、栽培を依頼したりできるかもしれない。