白崎秀雄の評伝小説『鈍翁・益田孝』に、こんなエピソードが出てくる。戦前を代表する財界の巨人でありながら、益田鈍翁は美術コレクターとしても屈指の存在だった。その彼が、田中親美(日本美術研究家)と某家に道具整理(美術工芸品類の売却処分)の下見に行ったときの話である。

 ・・・行つてみると、狭いところに実におびただしい道具が隙間もなくならべてあつて、どれがなにやら、折り重なつてもゐることとて一向にわからない。一つ一つ見てゐることなども、到底できない。

 益田がかまはず「すつすつと」その中を先へ歩いていくので、田中もだまつてそれについて行く。一通りざつと見終わると、益田は田中を顧みて、

「まづあの為泰の公任像が千円位から、それと鎌倉の仏像が千円かちよつとその上。床の横にあつた棚、あれがやつぱりその前後で、めぼしいものはこの三つだな」

 といふ。

(中略)二、三日してこの道具が御殿山邸の応挙館の広間にならんで、ここで道具屋の伊丹信太郎が札元になつて、入札が行われた。

 開札されて、親美は唖然とした。為泰はちやうど千円、鎌倉の仏像は千二百円、棚は九百円で落札されたのである。

 親美は、これに似たやうな例をたびたび益田に見た。

 本職ではない益田ですらそうである。日本美術の市場が大活況を呈した大正、昭和期、本職の美術商の中には、「桐箱に収められた美術品の真贋を、外から箱をちらりと見るだけで過(あやま)つことなく言い当てた」などという達人がごろごろいたらしい。「匂いで分かる」などと言ったりするらしいが、要するに、多くの経験を積むことで、きわめて限定的な情報からその全貌をかなりの確率で推測できるようになる、ということなのだろう。

「当事者」という落とし穴

 そのような熟練者であれば、ニセモノをつかまされてしまうなどということはまずないだろうと、普通なら考える。けど、修行が足りない私などはもちろんのこと、老練の美術商でさえ、ときとして過ちを犯してしまうことがあるらしい。

 ある人が非常によくできたニセモノを美術品店に持ち込んだとしよう。当人はニセモノであることを知っているから、ものすごく遠慮した希望売価を提示する。で、店主はまんまとそれにくすぐられるというわけだ。「これは千載一隅の大チャンスかも。この値段で本物が買えればかなり儲けられるぞ」という計算が頭の中で点灯するのだ。こうして、「本物かどうか」という答えが「本物だったら大儲け、ぜひ本物であってほしい」という邪念に覆われて見えなくなってしまうのだと、さる老舗の店主が言っておられた。