米フォード社はシェフィールド工場を閉鎖し,ミッションケースの生産を菱備製作所(現リョービ)だけでなく,マツダにも委託した。この決定により,我々宇部興産はマツダからダイカストマシンを受注することになった。それも,シェフィールド工場に納入した機械と全く同じものだった。

 組み上げたダイカストマシンをマツダに納入し,試運転が行われていたある日,同社の人事部長から電話がかかってきた。機械学会で知り合いになった人だ。話はこうだった。「うちの社内で素材部長に会って話をしていたときに,最近宇部興産の機械を導入したと聞いた。そこで,藤野さんのことを思い出し,私がよく知っている人だと伝えたところ,彼から『それではよろしく伝えてほしい。今来ている人が悪いわけではないのだが…』と言われた。私にはどういうことか要領を得ないのだが,一応,藤野さんにありのままに伝えます」。

 そうは言われても,私にとっても要領は得ない。しかし,これは何かあるに違いないと思い,早速,設計担当の川口東白君をマツダの現場に派遣したところ,「何が悪いか分からないが,良い品物ができない」という連絡が入った。さすがに,今度は菱備製作所に頼るわけにはいかない。マツダとはダイカスト品の供給で競合になるからだ。我々はとにかく良品ができるまで手伝うことにし,私は宇部興産の研究所にいた竹島孝彦君(故人)をマツダの現場に張り付けた。

 詳しく調べていくと,原因は,金型の中に空気が残ってしまうことだった。ここにアルミ溶湯を射出すると,アルミ溶湯が空気を巻き込んで固まり,鋳造不良である巣ができてしまう。竹島君はこの空気を何とか金型の中から追い出せば,良い品物ができるはずだと主張した。そして,その解決策を懸命に考え抜き,しばらくして私に「こんなバルブをここに付ければ,空気だけが金型の中から抜けるはずです」と伝えてきた。

 これを聞いた私も,何とか解決する方法はないかと沈思黙考を開始した。その結果,米レークエリー社と技術提携した20年前から言われていた「真空ダイカスト」の概念を思い出した。それからしばらくして,当時は具体案が浮かばずに実現できなかったアイデアがひらめいた。「おい,このバルブを真空タンクにつなげば,真空ダイカストができるのではないか?」。すぐに私は受話器をつかみ,竹島君に電話してこう言った。

 こうして誕生したのが,特許にもなった「真空鋳造法GFバルブ」である。この技術により,マツダが抱えていた難問を解決し,良品ができるようになった。それだけではない。当時ダイカストで造ることは困難だと言われていた部品を,我々はこの技術で次々と鋳造できることを証明していった。その結果,鋳造業界における宇部興産の知名度は世界的に高まった。

 メーカーにとって革新的な技術は喉から手が出るほどほしいものだ。だが,革新的な技術など,そう簡単に出てくるものではない。アイデアは個人の発想に頼るところは大きいものの,1人だけのアイデアでは不十分な場合もある。また,どんなにアイデアが優れていても,時代的に周辺の技術や環境が整っておらず,形にできないといったこともあるだろう。こうした場合は,急ぎすぎないことだ。課題や問題点,アイデアを頭の片隅にでも入れておき,機会があればいつでも思い出せるようにしておく。こうして,きっかけがあれば再びアイデアや具現化の方法を考え続けるとよい。私の場合も当時は解決できなかったことが,竹島君のアイデアが加わったことで,20年の時を経て実を結んだのだ。

 ただ,大変悲しいことに,その後竹島君はガンを患い,若くして他界した。発想豊かな竹島君がもっと生きていてくれたら,もっと優れたダイカストマシンが生まれていただろうと惜しまれてならない。彼の没後,残された奥様は子供さんの養育に苦労をされた。宇部興産のダイカストマシンを世界的に有名にした要因の一つとなった素晴らしい特許に,竹島君があれほど大きく貢献したにもかかわらず,その家族はほとんど報いられなかったのだ。このことが私にも心残りであり,これが後に私が特許報償金制度改定要求の裁判を起こした原点でもある。