文明になれないデジタル技術

 デジタル文明は,まだまだ未熟である。というよりも,いまだに文明としての体をなしていない。文明とは,数千年の時を経て,初めてその資格を持つことができる。デジタル技術は,百年間といった程度の長期間保存すら真剣に考慮できないでいる。すなわち,文明の成立条件である長期保存性を正面から議論するというマインドすら共通になものになっていない。

 絵画などを高分解能のデジタル情報に変換して保存しようといった動きもあるが,それはしばらくの間は良いが,本当の意味での長期保存が可能かどうかという問題が考慮されていない。なんでもデジタル化をすれば良いという考え方は,デジタル技術屋の奢りなのではないだろうか。アナログの方が場合によっては長期保存に適している可能性も高い,という事実を謙虚に反省すべきである。

 また,これまでのデジタル技術の世界は「方式を変えることによって新たな市場を作る」というマインドが前面に出ていたため,インタフェースがどんどんと変わってしまうのが通例であった。最近は,コネクタなどのハードウエアを含めて,前の規格を包含する形で新しい規格を策定するようになった。これはそれなりに進歩である。USBも3.0がそのうち実用になるが,USB2.0との連続性は保持されるだろう。

 しかし,その程度ではまだ小手先の対応に過ぎない。21世紀になって,バイオ・ライフサイエンス分野を除くと,半導体を含む多くの分野で技術革新が限界に近くなってきた。デジタル機器の開発者は,「デジタル文明をどのように築いていくか」という共通のマインドを持たなくてはならない。せめて,紙や銀塩写真程度の寿命を持たせることができるデジタル・メディアの開発が,絶対的に必要である。

 恐らく最良の解は,無機物である。しかも,岩石のような酸化物ではないか。これまでの歴史を振り返れば,ロゼッタストーンを小型化したようなデジタル・メディアであれば,1万年後にも解読可能である可能性は高い。