オイルショックが起きた昭和48年(1973年)頃,日本の高度経済成長は終わった。1億tの需要を生んだ鉄鋼やセメント,1000万台の生産量に達した自動車,180万戸の需要があった住宅。こうした大型商品は,日本ではこれ以上必要ないというところまで生産能力を増やしていた。

 日本市場で需要の拡大がこれ以上見込めないということは,我々宇部興産の機械部門の顧客も,今後は日本の工場でほとんど増設はしないということだ。増設しないのならば,新しい機械も必要ない。確かに,長期的な視点で新しい製品を開発しなければならないことは分かっている。だが,当面のメシも食わねばならない。それならやはり,輸出しかない。我々はなんとか輸出を増やせないかと考えていた。

 その頃,ソ連(現ロシア)から宇部興産にダイカストマシンの引き合いがあった。ちょうど西ドイツに出張する予定があったため,モスクワ経由で行くことにし,我々はソ連の公団で技術説明を行った。ところが,出席したソ連の役人はその技術説明にはほとんど関心を示さず,熱心に聞くのは宇部興産の機械の輸出実績ばかり。そして,「我々はドイツやイタリアの機械を購入している」とばかり繰り返すのだ。

 考えてみると,当時のソ連のような「官僚国家」の役人が,リスクを冒して実績の少ない日本の企業から機械を買うはずがない。とりあえず,機械に関する総合的な技術力の高さを端的に表していると言える自動車メーカーへの納入実績から宇部興産の力を判断しようにも,我々が機械を納めていた日本の自動車メーカーの生産量は,欧米の自動車メーカーと比べると少なく,ソ連の役人たちはあまり参考にならないと考えていたようだった。

 この一件から我々は,やはり,世界で認められるためには米国市場で実績を上げ,欧州市場にも機械を積極的に売り込んでいくしかないと痛感した。ソ連や中国をはじめとした後進国の多くに対し,最も説得力のあるセールストークは,欧米市場における実績。極端に言えば,それさえ主張すれば,わざわざ技術説明などしなくても黙って機械を買ってくれるのだ。もう待ってはいられない。まずは,米国市場を攻めよう。

 しかし,米国市場へ進出したいといっても,いきなり米ビッグスリーが無名の日本の機械メーカーの製品を,そう易々と買ってくれるとは思えない。また,米国は「自由の国」と言われるが,当時東部は保守的なエスタブリッシュメント層が幅を利かせていた。だから,東部での顧客開拓は難しいかもしれない。そんなことを考えていると,以前,ロサンゼルスで宿泊したホテルのことを思い出した。そのホテルのフロントに「お支払いはこちらです」と日本語で書かれた小さな案内板が置かれていたのだ。今でこそ普通だが,当時は非常に珍しかった。それだけこのホテルを利用する日本人が多いということだ。