事業形態は問屋とも小売とも言いがたいもので、顧客の求めに応じ、あるいは顧客の要求を察して、道具を製作するというものだったらしい。いわゆる注文製作である。美濃屋が受注はするが、実際の製作は出入りの職人たちが担当するのである。

 そう言ってしまえば「何も美濃屋など通さなくとも職人に直接頼めば安く済む」と安易に思ってしまうかもしれない。けれどもそれはどうやら違うようだ。京都国立博物館の資料では、そのことをこう説明している。

明治時代以降、「作家」という考え方が生まれ、職人たちは徐々に個人単位で仕事をするようにもなります。しかし、お客さんの要望を理解し、十分な技術的・文化的知識と芸術的センスを併せ持った主人と、時には挑戦的とも言えるその指示に対し、技術と工夫とで応えた名工たちとの共同作業は、より厳しく洗練された漆器を創作したように見受けられるのです。美濃屋製の漆器は、「美濃屋」という一軒のお店の下に結ばれたプロ集団の連携プレーによって、その品質と品格を保たれていたと言えるでしょう。

 想像するに、美濃屋は問屋の機能として挙げたマーケティング、アートディレクション、さらにはブランド、品質、生産体制の管理といった役割を担っていたのであろう。日ごろから、腕のある職人を発掘、育成し、常時抱えておくといったこともやっていたに違いない。さらには、その腕利き職人集団を総合的に動かすシステムを備えていたはずである。

宙に浮いた機能

 それでも美濃屋は廃業した。漆器という商品や注文製作という商習慣が時代の流れに合わなくなった、「いいものにカネの糸目はつけない」という大旦那がいなくなったなど、いくつもの理由があってのことだろう。その詮索はともかく、事実として美濃屋はなくなり、ほかの漆器問屋もどんどん姿を消していった。その結果として、問屋が担っていた企画・アートディレクションなど重要な機能は宙に浮いてしまったのではないか。さらに言えば、実は同じことが流通機構の簡素化という洗礼を受けた多くの商品分野でも起きているのかもしれない。美濃屋のことを調べていくうちに、そんな疑念がふつふつと沸いてきたのである。

 少なくとも伝統工芸品の分野では確実に、それが進行しているように思う。材料にしても道具にしても設備にしても、昔とは比べ物にならないほど進化し洗練され、表現の可能性はかなり広がった。精密な仕事も可能になっている。例えば戦前まで、陶磁器を焼く場合には人が炎や煙の色をたよりに温度を制御していた。今は何℃の単位で炉内の温度が制御できる設備もある。けれど、それで作品の質が上がったかといえば、必ずしもそうでもない。