そうでなくとも私を含め企業人は、余裕をムダの同義語とみなしがちで、業務改善のために余裕というかムダというか、そんなものがあったら即解消するということが習い性になっている。私自身も、少なくとも仕事の場ではそうしているに違いない。たぶん。けれど、趣味嗜好からいえばムダと呼ばれるものも嫌いではないし、その効用を信じていたりもする。机に座ってぼーっとしているときに小さなヒラメキを得たり、逆に「とりあえずいらない」と思って排除してしまったことに想定外の効用があったことに気付き、後でホゾを噛むなどということをしばしば経験しているからだ。

 「問屋」という存在もそんなものかもしれないと、最近考え始めた。もちろん論拠というか妄想で固めた屁理屈というか、そんなものもある。それをくぼたつさんにお話ししてみたら「うーん、そうだよなぁ。オレ、問屋不要論者だったけど、反省しなきゃ」と激しく同意していただいたので、いい気になってご紹介させていただこうと思い立った次第である。

それは1冊の本から始まった

 とにもかくにも江戸時代からごく近世まで、問屋は大きな力を持っていた。だが最近は、分野によっては存続すら危ぶまれるほど存在感が薄まっているようだ。専門家の指摘によれば、それが「流通システム上のムダ」「不要なもの」とみなされ、「そんなものを温存しておく余裕はない」ということで敬遠されるようになったのは、一冊の本がキッカケだったのだという。1962年に出版された『流通革命』(林周二著)である。

 この中で林氏は、「問屋は将来淘汰され、日本の流通は革新的な小売業によって近代化されていく」と予見された(参考記事)。「モノ、サービス、カネ、情報等の伝達機能である経路系の諸機能を高度化し、中間業者である問屋を排除することなしに、わが国経済の国際競争力の強化はない」との立場をとったのである(参考記事)。この著書に触発され、中内功氏がダイエーの大改革に乗り出した、などということもあったようだ。

 林氏の予見通りの事態が出現した。問屋を飛び越し、小売店が直接産地から買い付ける、メーカーから取り寄せるということが当たり前になったのである。ネットの普及で最近では、小売店すら跳び越して、消費者が直接、製造者、生産者から購入するということもめずらしくなくなった。実際、その「金銭的メリット」をしみじみと実感する機会に遭遇した。