まだビデオデッキが一般家庭には少ない時代でしたから、学校のデッキで擦り切れるほどスローモーション再生で繰り返し見ていたのですが、そこである時ショッキングな事実にぼう然とすることになったのです。なんと憧れの雲上人カール・ルイスさん、走っている途中で舌が出ているのです。それもコーナーの出口だけでなく、結構何回もペロン・ペロンと出している。それはペコちゃん風でもなく、仁王様風でもなく、なにかごく自然に、あえて例えるなら、走る猟犬が頻繁に舌を出し入れしている感じでした。彼の表情をスローでよく見ると、走る際の上下動に応じて、頬の筋肉が上下にユサユサと揺れています。顔全体が非常にリラックスしていて、それ故に顔の肉が柔らかく上下動していたのです。首筋から肩にかけての筋肉全体もおどろくほどに弛緩していました。とても人類最速の全力疾走をしている最中の人とは思えないほどのリラックスの中で、若干ほほ笑むようにも見える表情で前を見据えて走る彼の口は自然に開閉し、舌も「出す」というよりは「出ちゃいました」と言う感じで自然に出てくるのでした。

 皆さん、運動会の写真とか思い出して下さい。全力で駆ける人の表情、みんなとんでもない緊張の塊ですよね。仁王様じゃないですが、怒髪天を突くとでもいうか、首筋には幾重にも筋が入ってカチカチ、額にも青筋立てて「憤怒」の表情で走る岩石状態です。ところが、馬力を上げようとして力むとかえってスピードは出ないものです。だから競走では、如何にリラックスできるかがとても重要なのです。しかし当時の私にはあそこまでリラックスさせて疾走が可能だとは、そのスロー再生画像を見るまでは理解できませんでした。理屈ではわかっていても、現物を見るまでは感覚的に腹には落ちていなかったのです。

とにかく受け入れる

 そこで、例の大橋大先輩のアドバイスです。彼もその昔は日本代表に選ばれるくらいの凄い高偏差値の選手だったはずです。才能だけでなく、さまざまに創意工夫を凝らして実績を上げられたのでしょう。ただ、その結果を頭の悪い後輩たちにもわかりやすく説明する動画像は残っていませんでした。さらに不幸なことに、彼はリラクゼーションと舌を出すことの関係性を、今風な科学的な因果でもって説明するというプロトコルも持ち合わせていませんでした。

 言い訳をすればいくらでも、彼のアドバイスを真面目に受け止めなかった理由はあげられるでしょう。しかし、もしあの時、昔風の職人と弟子の関係性のように「まず四の五の言わずに形から入れ」という書式で処理していたらどうだったでしょうか。100メートルまできたところで舌を出そうとする私、当然出せません。何故か。仁王様のようなカチカチの怒りの表情で走っているからです。それでも馬鹿になって師匠の教えに則り無理やり出そうとしていたらどうなったか?舌を噛んでいたかもしれません。何度か真剣にトライ&エラーを繰り返すうちに、「そうかコーナー出口で、さあこれから加速というタイミングで舌を出せるくらいリラックスできていれば達人になれるのだ」と、自力で開眼できたかもしれないのです。