昭和37年(1962年),ダイカストマシンの1号機ができる前に,技術提携先のレークエリー社が倒産した。我々はまだ勉強を始めたばかり。こんなところで先生がいなくなったのではどうしようもない。お先真っ暗である。

 しかし,まだ契約は破棄されたわけではない。しばらくして,レークエリー社から「古い図面は全部マイクロフィルムに残してある。これを買い取ってもらって,契約を終結しよう」と申し入れがあった。契約業務について担当していた浅野正敏専務が交通事故でケガをしていたため,本社の俵田寛夫専務(元副社長)に同行して私も米国に出張した。

 レークエリー社の倒産の理由は,もちろん,経営不振であった。同社の押し出しプレス機の競合メーカーだった米ボールドイン・ライマ・ハミルトン(BLH)社のオーナーが,レークエリー社を買い取り,設備だけを持って行ってつぶしてしまったのである。

 終結契約の交渉はかなり難航したが,俵田専務の粘り強い交渉によって当初の頭金15万米ドルを9万米ドルに引き下げてもらい,すべての図面のマイクロフィルムを受領した。これでランニング・ロイヤルティーはゼロになった。だが,私にはこの先どうやってこの仕事を進めたらよいか分からなかった。しかし,今から振り返ってみると,突然先生を失うというこの経験があったからこそ,我々は誰かに頼ることなく,覚悟して一生懸命に独自の道を切り拓いていくことができたのだと実感している。

米国出張中に

 宇部興産の最初の米国駐在員であった斉藤精志郎さんのお世話で,米フォード社の自動車工場をはじめ,その他あちこちの工場を見学させてもらった。そのころの日本の経済力はまだ弱く,米国の自動車の多さと仰ぎ見る高層ビル,工業力の高さ,農地の広さに衝撃を受けた私は,ただ驚くばかりだった。私は戦時中,陸軍に籍を置いていたが,勝てるはずもないこんな国を相手に,日本がなぜ戦争を始めたのかと正直思ったものだった。

 しかし,このときの米国出張が「我々は,ダイカストマシンとアルミ合金の押し出しプレス機を伸ばすべきだ」という決心を固くさせた。また,斉藤さんから「今後は樹脂の時代だから,射出成形機を造れ」と言われたのが心に残っており,数年後に我々はその分野にも進出した。

 この出張で私が留守の間に,入社3年目になった川口東白君と彦由耕二君(後に法務部長)が頑張って1200tのダイカストマシンと,1500tの板金プレス機を受注したと連絡があり,私は急いで帰国した。

1200tのダイカストマシンを受注