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 現在,宇部興産のアルミホイールが日本国内においてトヨタの高級車「レクサス」をはじめ,各自動車メーカーの高級車向けに納入されていることを,果たしてどれくらいの人がご存じだろうか。つい最近まで世界一の自動車メーカーと言われてきた米GM社が誇る高級車「キャデラック」や「コルベット」に,アルミホイールの全量を供給してきた「A-Mold社」という会社があった。この会社が,宇部興産が米国に設けた子会社であったことを知っている人は,宇部興産の地元である山口県宇部市民の中でも少ないだろう。

 多くの人は「本当ですか?」と首をひねるかもしれない。だが,これは事実であり,数年前に労働問題を理由にA-Mold社が閉鎖されるまでの約10年間,この状態が続いていたのである。その後,このアルミホイールの開発と生産はユーモールドという会社を経て宇部興産機械に引き継がれ,国内では依然,高いシェアを保っている。

 今でこそ「総合化学メーカー」とうたっているが,もともと宇部興産は自動車産業とは無縁の田舎の炭坑会社だった。そんな会社の一部門にすぎない機械部門が,従来にない新しい製品を生み出し,トヨタやGMの看板商品である高級車に採用されるまでになったのである。戦後の産業変化の中で,炭鉱から出発した宇部興産の機械部門が,約半世紀の間に炭鉱機械からどのように新規事業を開拓していったのか。その道のりをこれから紹介していきたい。

 産業は時代の変化とともに変わっていく。この変化に対応できなければ,企業は消えてなくなってしまう。110年ほど前に,低カロリーの品質の悪い石炭しか取れなかった炭坑から出発した宇部興産が今なお存在するのは,創業者で初代社長の渡邊祐策翁が「石炭は掘ればなくなる。石炭がなくなれば宇部はまた寂れて昔の一寒村に戻ってしまう」と,有限の石炭から無限の工業へと果敢に挑んできたお陰だ。つまり,石炭からセメント,窒素肥料と工業を興したことが,他の産炭地と異なり,石炭がなくなった後でも町が存続できた大きな理由である。

 世間一般では「企業の寿命は約30年」と言われている。これは一つの商品の平均寿命が約30年であるということだと思う。この間に新しい商品を生み出し,入れ替えていかなければ企業は存続できないことになる。戦後60年余り,商品が時代とともに変化していったことは,このことを雄弁に物語っている。そして,この事実は,地方の住民の生活にとっても重要なことである。産業は常に変化している。新しい製品を生み出し,新しい事業を起こしていかなければならないのだ。

戦後の焼け野原から

 昭和20年(1945年)8月15日,日本は戦争に負け,米国軍に占領された。米国軍が投じた焼夷弾は多くの家を焼き,田畑を荒らした。肥料もなく食料は不足し,多くの餓死者が出た。当時のひもじさは一生忘れられない。

 この時代,最もほしいものは食べ物であった。配給では足りないため,皆が闇の食料品の買い出しに出かけ,大きな農家には御殿が建った。私自身,木の根を掘り起こして荒れ地を耕し,さつま芋や蕎麦(そば),粟を植えた。そして,冷たい海でワカメを取り,貝を掘ったりして飢えをしのいだ。

 食糧増産に欠かせないのが肥料である。窒素肥料である硫安(硫酸アンモニウム)を造っていた宇部興産の窒素工場はフル生産。袋詰めのミシン作業が間に合わず,私は学生時代の春休みに,その肥料袋の千枚通しによる手縫い作業のアルバイトをしたこともある。

 爆撃で破壊されたいろいろな設備を復旧するためには,鉄とセメントが欠かせない。そして電力が必要になる。これらを作り出す主要なエネルギ源は石炭であり,もちろん,宇部興産の炭鉱はフル生産だった。炭坑労働者には米の特別配給まであった。そのため,宇部線の通勤電車は超満員で,旧市内の人はほとんど自転車で通勤していた。娯楽といえば映画で,映画館は10館以上あり,西部劇などに客が集まっていた。