この夏休み,長野県の茅野市から白樺湖を越えて佐久,軽井沢方面までドライブした。八ヶ岳の北を迂回する70kmほどのルートだが,90年ほど前の1919年(大正8年),ここを通る「佐久諏訪電気鉄道」の免許申請がされている。もちろんそんな鉄道は現存しない。途中は急勾配も多い上に,深い森林地帯である。当時としては壮大な計画だったに違いない。人口密度などから考えると採算が合うとは思えないのだが,景気の良かった生糸産業などから多くの出資者を集めたという。

 この計画は,ずさんな経営と昭和初期の不況などにより茅野市側からわずか数km建設が進んだところで頓挫した。今でも遺構らしきものを見つけることができるようだ。この種の話,日本中,あちこちにある。冒頭で触れた北陸の地方鉄道にも「北陸鉄道金名線」という支線があった。金名線の金名とは石川県の金沢と名古屋のことである。日本地図をご覧になれば分かるが,金沢から名古屋の方を向いて立つと,目の前には標高2700mの白山が立ちふさがる。どうやってそこに電車を通そうと考えたのだろうか。ちなみに,この金名線も白山のふもとまで建設され,そこで中断したまま1987年に廃線となっている。

時代に逆行した新幹線

 明治時代後半と言えば,山間部の用地代などはタダ同然で,人夫代も安かったに違いない。完成すれば地域の交通を独占する鉄道事業には早い者勝ちで参入者が相次いだ。多少,大言壮語の計画の方が出資者を集めやすかったのだろう。それほど羽振りの良かった鉄道事業を,クルマ社会はあっという間に壊滅させた。戦後の10~20年で,全国の地方鉄道が採算を悪化させ,国鉄の貨物輸送が赤字になり,旅客輸送も限られた区間しか採算が取れなくなった。

 世界中がモータリゼーションの渦に巻き込まれ,もはや鉄道の時代は終わったと言われた1960年代半ばに,日本は世界でも例を見ない「新幹線」というプロジェクトを展開する。これ以上,時代に逆行するものはないという事業だったが,結果は大成功を納めた。世界の交通研究者の間に高速鉄道見直しの気運を巻き起こし,欧州のTGVプロジェクトにも影響を与えた。