それは「売る」ということなのではないかと睨んでいる。先の元建設会社社長のケースでいえば、彼はこれまで「買い一辺倒」だった。資金に余裕がある者だからこそできることだろう。膨大な時間と資金を投入して大コレクションを作り上げたが、すべて贋物だったという「お決まりのパターン」を演じてしまう人は、おおむねそうなのではないかと思う。
これに対してプロの古美術商は、買うだけでなく売る。今日「目利き」として知られるコレクター、例えば青山二郎や白洲正子といった人たちも、買って溜め込む一方ではなく、資金確保のために所持品を処分するということを頻繁に繰り返していたようだ。こうして手にした資金をもって欲しいものを買い、高揚感を味わう。それが糠喜びでなかったかどうかを、その後にそれを「売る」という行為によって自ら知るのである。そこに、大きな喜びや痛みを伴うことも見逃せない。もし、勇気をもって買ったものが贋物であれば、金銭的にも大きな損失となる。プライドも傷つく。その痛みが自省という行為につながっていく。それがあってこそ、人は本当に学べるのではないかと思うのである。
寝ながら自分の首を絞める
面白い話がある。古くから古美術商間では「騙し合いOK」という暗黙のルールがあるのだという。例えばある業者が贋物を買い、それを汚したりして古色を付け、さらには古い桐箱などに入れ、いかにも由緒ありげな名品に見えるように仕立てる。これを業者が多く集まるオークションなどに持ち込み、売る。「これは名品だ」と見誤って買った側は、騙されたことがわかってもクレームはできない。もちろん、一般顧客を相手にこれをやることは「反則」。だから結局は、売ることもできない贋物を抱え、「目が利かなかった」と自分を責めるしかない。
見習い修行中の店員も、こうしたオークションの場を勉強の場とする。ただ「よく見て覚えろ」と言われても本当の勉強にはならない。だから、店員間で賭けをする。下見の際に各々が出品商品の「値踏み」をしてそれを申告し、実際の落札結果に近かったものが賭け金を受け取るしくみだ。多くはないであろう給料を賭けることで、「目利き」という行為に喜びと痛みを伴わせるのだ。