1989年,東芝はノート・パソコン「DynaBook」を発売した。

 IT分野で米国に大きく引き離されている日本が,世界を大きくリードしている数少ないジャンルがノート・パソコンである。しかも,この領域では,常に世界の先端を走ってきた。そもそもノート・パソコンは,日本企業が世界に先駆けて商品化した。東芝が1989年に発売した「DynaBook(ダイナブック)」だ。3.5インチ・フロッピー・ディスク装置を内蔵しつつ,A4判サイズで重さは2.7kg。しかも価格は19万8000円と,当時としては画期的な値付けだった。

図1 本誌1989年8月7日号に掲載した記事
図1 本誌1989年8月7日号に掲載した記事 (画像のクリックで拡大)

 その当時本誌の編集部でパソコンなどの担当記者だった私は,迷わず「ノート・パソコンの第1世代のひな型になりそうだ」と報じた(図1)。テレビCMには当時F1ドライバーだった鈴木亜久里さんが片手でつかむシーンがあり,文字通りノートのように持ち運べる印象を与えた。

Alan Kayの論文に衝撃受ける

 DynaBookが誕生した背景には,ある男の強烈な思い入れがある。当時東芝でパソコン開発の責任者だった溝口哲也氏(現・東芝 顧問)だ。1963年に入社した溝口氏は,東芝で長年大型汎用コンピュータの開発に携わった。しかし,日本IBMをはじめとする競合を前に苦戦を強いられた。1977年,そんな溝口氏の前にある論文が現れる。当時米Xerox社のPalo Alto Research Centerの研究員だったAlan Kay氏による「Personal Dynamic Media」だ。論文を読んだ溝口氏は,「全身がビリビリッと響いた。すごく感動した」という。「何としてもこの夢のコンピュータを作ってやる」と心に誓った。

 もちろん,いきなりDynaBookを開発するわけにはいかず,溝口氏は何とか上司を説得してパソコンの開発に着手した。「海外向けでOEM(相手先ブランドによる生産)ならいいよ」と上司は条件をつけたそうだ。1977年秋,溝口氏をヘッドとする東芝のチームはパソコンの開発に取り掛かった。一方,東芝の大型汎用コンピュータ事業は窮地に陥っていく。翌年の1978年3月,日本経済新聞が「東芝,大型機の開発から撤退」とスクープした。

 程なく最初のパソコン「T400」が完成した。当時米国で販売されていた「Apple II」のような形で,カラー・テレビに接続して使うものだ。その年の7月に米国シカゴ市で開催された展示会で,T400は人気を博した。溝口氏は家計簿ソフトやゲーム・ソフト,料理ソフトなどをそろえさせた。