おごれるもの久しからず。バブル崩壊とともに基礎研究ブームも泡と消え,それどころか研究所そのものの縮小・再編に日本企業も励むに至る。再び欧米が教師となる。そして欧米がこの四半世紀,血みどろの努力の果てに,大学を産業的価値の源泉に位置付けていたことを,ようやく知る。こうして1990年代後半から日本でも,産学関係の再構築と大学改革が始まる。

「日本製品は高品質」の評価得る

 1980年代に限れば,日本のエレクトロニクス産業は成長を続けた。特に半導体産業は大きく伸びる。貿易摩擦の主役もテレビやVTRから半導体に交替する。そして,その半導体が1990年代以後には衰退の象徴となる。

 既に1970年代のところで触れたように,「超エル・エス・アイ技術研究組合」が1976年にスタートした。このプロジェクトの成果は後に諸外国に脅威を与えるに至る。日本の半導体産業が,共同研究の成功の結果と見なされたからである。日本株式会社論がここから出てくる。「通産省と企業が一体となって一つの株式会社のように振る舞い,輸出市場に攻勢をかけている」,そう批判された。

 半導体市場における日本製品のシェアは急上昇する。特にメモリ分野では1980年代半ばには9割近くに達する。しかし10年後にはそのシェアは1割を切る。栄枯盛衰。

 日本製半導体製品は品質の高さで評価を得た。1980年に米国ワシントンD.C.で開かれたセミナーでは,日本製メモリの方が欠陥率がずっと少ないというデータが発表される。同時にこの席では,品質に関する日米の考え方の違いも明らかになる。「検査によって不良品をふるい落とすこと」,これが米国流の品質管理だった。「欠陥が生じないように製造工程を改良する」,日本流はこう認識される。

 日本製品の方が高品質という評価は,半導体を超えて家電製品や自動車でも定着していった。日本産業界は自信を深める。「良い製品を安く売って何が悪い」といった雰囲気が日本産業界を覆う。この雰囲気が諸外国に学ぶ姿勢を弱め,後年のバブル経済と1990年代の「失われた10年」を準備する。

基礎シフト

 「日本株式会社」批判と並んで欧米からの批判がもう一つあった。「基礎研究ただ乗り」批判である。「日本産業は繁栄している。ということは科学,すなわち基礎研究の成果がなければならない。ところが日本では基礎研究には見るべきほどのものがない。よそで達成された基礎研究成果にただ乗りして,日本は産業的繁栄を実現しているに違いない」。