電子工業関連で消費者が重要な役割を演じた早い例に「カラー・テレビの二重価格問題」がある。

 きっかけは貿易摩擦だった。日本製のカラー・テレビが米国でダンピングの疑いで提訴された。ここでの問題は,日本製テレビの日本国内価格と輸出先での価格である。一般に後者の方が安いと,ダンピングとされる。これに対応する動きとして,日本国内では表示価格と実売価格の乖離が問題にされた。

 いずれも実は,技術革新が関係している。トランジスタ式のカラー・テレビが実現した結果,旧来の真空管方式のテレビの価格が激しく低下したのである。

 製品寿命が極端に短くなった最近のパソコンなどでも,価格問題は複雑である。オープン価格が隆盛とはいえ,価格問題に万能の解はないようだ。

 貿易摩擦も1970年代から激化した。初期にはカラー・テレビやVTRなどの民生用電子機器の輸出によって起こる。やがて半導体が主体となる。しかし今や昔,1990年代の後半には摩擦を起こすほどの競争力は,日本になくなってしまったようにみえる。貿易摩擦に悩んでいたころが懐かしい。

 第二次大戦後の日本電子産業をまず牽引したのはラジオである。終戦直後は輸出できるほどの技術力も生産力もなかった。しかし1955年以後になるとラジオの輸出が急激に伸び始める。最大の輸出市場は米国だった。

 トランジスタ時代になると輸出志向は一層強まる。トランジスタ・ラジオは9割が米国,カナダへの輸出に向けられた。1959年には日本製トランジスタ・ラジオの輸入阻止運動が米国で台頭,貿易摩擦のはしりとなる4)

 トランジスタ式テレビがラジオの後を追う。1960年代の前半は白黒テレビだが,後半にはカラー・テレビの輸出も目立つようになる。輸出市場は相変わらず米国が中心だった。ラジオ,テレビのほか,カセット・テープ・レコーダーなどのオーディオ機器も輸出で成長した。やがてビデオ・テープ・レコーダー(VTR)が輸出の花形となる。こうして貿易摩擦の時代が,1970年前後から本格化する。日本電子機械工業会(電子情報技術産業協会の前身)の歴代会長の最大の懸案は,ほとんど常に貿易摩擦だった5)

 民生用電子機器を米国市場に輸出することを通じて自国の電子産業を立ち上げる,というのは,第二次大戦後のほとんどの発展途上国がたどった道である。日本も例外ではない。しかし1970年代の末ごろから,この構造に異変が生じる。本格化するのは1980年代以後のことになるが,貿易摩擦との関連で,ここで触れておきたい。