「計画は守り通すのが自分の主義」

 臼淵大尉は「飛び切りの美男」であり、クロールの達人であったという。これは天与としても、その意志の強さと教養には「参りました」と言いたくなる。明らかに筆者の「精神構造には戦前よりも劣る面がある」。

 『臼淵大尉の場合』には、小中学校時代の友人が臼淵大尉の人となりを語る下りが出てくる。「どんなことがあっても、たとえ病気で熱があっても、徹底的に自分のノルマは果たす。しかし疲れた仲間に、『俺が手伝ってやろうか』などということはゆめゆめ言わない」。また、ある時、半日歩く予定で歩き始めたところ、しばらくしてバスが来た。友人達が顔を見合わせ、「乗ろうか」と言い出した時、臼淵氏は「一たんたてた計画は守り通すのが自分の主義である。楽になりたい奴は勝手にのれ。俺は一人でも歩く」と言い切り、皆はそれに従ったという。

 その一方、臼淵大尉は「軍人としては並外れて情味に富んだ男」であったと吉田氏は書いている。先の小中学校の友人は、臼淵氏と親しくなった後、「新たに発見した臼淵という人間は、私をもう一度驚かせた。彼の話題が、もっぱら芸術めいたことに集中していたからだ」と吉田氏に語った。臼淵大尉は徹底して口数が少ない人だったが、口を開くと「芸術めいたこと」、すなわち「音楽、映画、小説、童話、詩」について語った。兵学校時代、臼淵氏は妹に夥しい手紙を送った。その内容は音楽と文学の話であった。小学校時代からハモニカを愛好し、「兵学校に入ってからは、休みの日に倶楽部で飽きる程ハモニカを吹くのが重大な日課で、仲間たちもそれを聴くのを大きな楽しみとした」(『臼淵大尉の場合』)。

 妹への書簡の中で、詳細な読後感の記述と共に以下の本を推奨したという。青い鳥(メーテルリンク)、幽霊(イプセン)、紅い花(ガルシン)、狂人日記(ゴーゴリ)、炉端のこほろぎ(ディッケンズ)、或る男、其姉の死(志賀直哉)、若きヴェルテルの悩み(ゲーテ)、田園交響楽(ジイド)、天の夕顔(中河与一)。詩では萩原朔太郎、上田敏、三好達治、伊良子清白の名を挙げている。俳句については蕪村に傾倒し、妹に「蕪村句集を買つて来て年中読め。蕪村を自分にとり入れて美しい句を作れ。飽きずに年中作つてみろ」と書き送った。余計な事だが、筆者はここに挙げられた書物をどれ一つとして読んでいない。読めばよいというものではないが、彼我の教養格差は歴然としている。「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ」とつぶやくように語った時、臼淵大尉は弱冠21歳であった。

 教養の差という点は吉田氏からも感じる。勿論、吉田氏の文才を、筆者のそれと比べる事自体おこがましいが、そもそも筆者は文語文など書けない。『戦艦大和ノ最期』が傑作となった所以は内容もさることながら格調高い文語文で書かれている事である。『鎮魂戦艦大和』の「あとがき」に吉田氏は「二年間にわたる不毛の戦塵生活からのがれてきたばかりの弱冠二十二歳の私が、曲がりなりにもこの筆馴れない文体と修辞をもって全編を貫きえたことを、戦前の行きとどいた国語教育の賜物として感謝したい」と書いている。これを読むと、また余計な事だが、小学校で英語を教えるどころではないという気がしてくる。

 沖縄特攻に際し、臼淵大尉は大和の後部副砲指揮官であった。しかし、「砲撃の射程内に入る米艦船は一隻もなく、さりとて対空射撃を試みるには、千メートルの雲高は低きに過ぎた。(中略)その後戦闘終結まで砲弾千六百発を満載したまま、ついに一回の『弾コメ』下命の機会さえなかった」(『臼淵大尉の場合』)。後部指揮所の中で、臼淵大尉は「顎を深く引き肩を怒らした得意の姿勢」で立ち続けるしかなかった。最期の様子を『戦艦大和ノ最期』から引いて締めくくりとする。

臼淵大尉(後部副砲指揮官)直撃弾ニ斃ル
智勇兼備ノ若武者、一片ノ肉、一片ノ血ヲ残サズ
死ヲモッテ新生ノ目覚メヲ切望シタル彼、真ノ建設ヘノ捨石トシテ捧ゲ果テタルカノ肉体ハ、アマネク虚空ニ飛散セリ