「なにもしなくて、大丈夫です」

 「え! なんでそうなるんですか」

 画面にはテレ朝のニュース番組が映っていた。

 「ほらこちらが、フジ、こっちはNHKですね」

 全部の番号を押してみせる。

 「この赤いボタンで、地域の天気予報がでますから、天気予報の時間まで待たなくていいんです」

 いや、そうじゃなくて、うちはデジタル工事しなきゃいけないと、先日電話したばかりなんですが・・・。

 「ほー、東京MXTVも映るか。お得ですね。本来これは東京(わが家は神奈川)の番組だから取らなくてもいいんですが、○○は鷹揚なんですよ」

 結局、わが家は何の工事もしなくても、ケーブルテレビのコンセントにつなぐだけでデジタル放送を見ることができるとわかった。そして電気屋さんは、見積書に「0円」と書き込んだ。ケーブルテレビ局はしかし、そんなことを伝えはしない。彼が現れてくれなかったら、相変わらず私は神秘の中で大金を支払うのが当たり前と思い込んだままだったろう。

 電気屋さんと30分ほどの時間を過ごしたおかげで、なぜ町から電気屋さんが消えていったのかが分かったような気がした。実は、電気屋さんはあいかわらず町のあちこちにいる。○○電気、○○家電といった有名な名前で。そこで彼らは、大規模宣伝の元、規格化されたサービスに従事している。そんな彼らも、今回のようにちらりと「電気屋さん」の気骨を見せてくれたりする。けれど、それもいつまで続くことか。「大量販売と規格化」を推し進めようとするとき、消費者の知恵は決して都合のいいものではないからだ。

 テレビを買おうという人は、いまどきのテレビはさっぱりわからないと嘆く。結局は値段とインチだけを頼りに買うことになる。それでも不満はないだろう。しかし、家電がもっと手の届かない高級品だった頃、私たちはそれに近づきたいと願った。その時、魔法のようなテクノロジーをほどよく解明してくれる町の魔術師が「電気屋さん」だった。まさに彼らは、消費社会という怪物と戦ってくれる名もなき騎士だったのである。

 1円でも安く、と私たちは言う。けれど、1円安くなるために、私たちは電気屋さんというかけがいのない味方を失い、お金に替えられない知識を失っていくのかもしれない。

著者紹介

神足裕司(こうたり・ゆうじ)
1957年広島生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。筒井康隆と大宅壮一と梶山季之と阿佐田哲也と遠藤周作と野坂昭如と開高健と石原裕次郎を慕い、途中から徳大寺有恒と魯山人もすることに。学生時代から執筆活動をはじめ、コピーライターやトップ屋や自動車評論家や料理評論家や流行語評論家や俳優までやってみた結果、わけのわからないことに。著書に『金魂巻』『恨ミシュラン』あり。