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湯豆腐の器に贅を尽くす

さわらで作った小判型の湯豆腐桶。「中川木工芸」では、初代の亀一の代より作り続けている看板商品のひとつだ。元々は亀地一が職人を務めていた京都の桶・樽の老舗「たる源」で高級料亭などに向けて作られていた品だが、亀一はたる源で腕を認められ、独立後もまったく同じものを作ることを許されたのだという。

 器の力としか言いようがない。この器に入るだけで、湯豆腐という実に簡素な食べ物がおそろしく風流なご馳走になるのだ。豆腐は、ふわふわと小判型の木桶の中で揺れ動き、ふうっとすくわれるのを待っている。桶の端には炭火を入れる部分が設けられており、湯豆腐が冷めることも、煮えて鬆(す)が入ることもなくという、絶妙な温度に保つ。その横にはつけ汁や熱燗を温めるための仕掛けもある。それを食せば、口の中を大豆の香りが満たし、そこになぜか懐かしい椹のほのかな香りが交じり合う。まあ、うまい。

現在ではお櫃を使う家庭も少なくなってしまったが、ご飯の余分な水分を吸ってくれるお櫃は、かつては食卓に欠かせないものだった。特にさわらはやさしい香りを醸し、ご飯の味を引き立てる。左は、中川周士オリジナルのクロームメッキのたがをはめたお櫃。洋食器と並べても違和感のない、現代の食卓にも合うお櫃である。

 この桶は、湯豆腐専用に作られた「湯豆腐桶」。三代続く桶屋の職人によって作られたものだ。京都の料亭や湯豆腐専門店などがこの桶の大口顧客だが、最近では個人で求める人も増えているという。どこかでその風流さを体験し、その虜になってしまう人が多いのだろう。しかし、決して手軽な価格ではない。さまざまなバリエーションがあるが、標準的なものでおよそ7万円。他の工房作では10万円以上のものもあるという。豆腐一丁の価格からすれば、それを味わう器としては相当に贅沢なものだ。

 湯豆腐桶だけではない。すし桶、ご飯のお櫃、風呂桶から小さなぐい飲みまで、多くの桶が伝統的な手仕事で作り続けられ、高価であるにもかかわらず、それを求める人がいまだに絶えないのである。

木桶を忘れた日本人

 そもそも木桶とは、短冊形の板を円筒形に並べた外側を、竹や金属の箍(たが)で締めた器のこと。半世紀もさかのぼれば、それは生活の必需品だった。湯桶に盥(たらい)に味噌桶と、一家にいくつも木桶があったものだ。

 その構造や製造方法は、湯豆腐桶もお櫃(ひつ)も湯桶も盥も基本的には変わらない。もちろん機械のない頃はすべて人の手で、自然の木を加工して作っていた。山野へ入って木を選んで切り出し、作りたい桶の種類に合わせて短冊形の板にしていく。それを必要な数だけ使って円筒状につなぎ合わせ、底板をはめ、箍で締めて留める。それを人が作り使っているうちに、もっとこうすれば使いやすくなる、もっと丈夫になるといったことに気付いていく。そのたびに改良が加えられ、細かい工夫を凝らした精度の高い桶が作られるようになっていったはずだ。人が作り出した、数多くの道具がそうであったように。

 こうして人が知恵と手間をかけて進化させていった「ものづくりの技」のエッセンスをうまく抽出し、機械などを利用して低コストで製品を生産できるようにしたのが、いわゆる工業技術である。最初は手の代用だったかもしれないが、今日ではLSIのように、とても人の手では作り出せないものまで大量に生産できるようになった。今、桶の代わりにどこの家庭にもあるのは、この工業技術によって安価に製造可能になったプラスチック製の湯桶であり、ステンレス製の盥である。

手でなくては作れない

ただ、木桶が絶滅したわけではない。世の風潮は自然派志向。暮らしに木の温もりを求める向きもあって、近所のスーパーマーケットにも木の風呂用品コーナーがあったり、台所用品の棚にお櫃が並んでいたりもする。けれど、これら身近で手に入るものの多くは、木製ながらも機械で作られた工業製品なのである。昔ながらに手で作られた桶は、料亭や高級旅館などを除けば、一般的にはほとんど目にすることもなくなってしまった。

 それでも、安価で機能的なプラスチックやステンレスの桶、盥に物足りず、さらには工業的手法で作られた木製桶にも満足できず、雑誌やインターネットで探してわざわざ手作りの桶を求める人たちがいる。熟練の職人技によってしか実現できないものがあるからである。その価値を重く受け止める人たちは、どんなに割高でも、どこに埋もれていても、それを見つけ出して求める。

 その「手でしか生み出せないもの」が何なのかは、くだんの湯豆腐桶を実際に使っている人でも明確には意識していないかもしれない。たぶん、「美しい」とか「存在感がある」といったほのかな印象でその「違い」を感知しているに過ぎないのだ。もちろん、美しいと感じるにはそれなりの理由がある。さらには、使い込んでみなければわからないよさもある。けれど、その正体を完成した製品から見透かすのは難しい。桶というもの、そして手技というものに対する理解を、もう少し深めていく必要があるだろう。