1970年(昭和45)年に開催された日本万国博覧会は、入場者6000万人を超える大成功のうちに幕を閉じた。話題の「タイムカプセル」――1970年の話題の品2098点を収め西暦6970年まで保管するものである――の開発を成功させた中尾哲二郎であったが、一息つく時間も、70歳という年齢に達した自身の今後を考える余裕もない。カラーテレビに次ぐ大型商品の創出、高度成長期の過当競争のシワ寄せ、と多くの難題が待ち構えていた。

 同年11月号の社内誌では、「今年僕は古稀を迎えて、非常に健康で、気力も体力も人一倍充実して晴れ晴れとした心境である。…僕はこれからも精一杯努力して、この困難な局面を従業員の皆さんとともに乗り越えてゆきたい」とコメントを寄せた。松下幸之助との二人三脚に終わりはないとの決意の表明でもあった(図1)。

図1●中尾哲二郎年譜(5)-1971(昭和46)年から1981(昭和56)年まで-
図1●中尾哲二郎年譜(5)-1971(昭和46)年から1981(昭和56)年まで-

 中尾にとって、ビデオテープレコーダー(VTR)の開発はテレビと並んで最も力を入れたテーマの一つである。理由はテレビに続く大型商品であることに加えて、その要素技術が精密工学の結晶であり、個人的な興味を持てたことにもあった。

 松下電器におけるVTR開発の歴史は古く、中央研究所の設立当初から磁気ヘッドを中心に研究を進めてきた。1959(昭和34)年には米電器メーカーのアンペックス社と互換性のある放送用VTRを完成させている。アンペックスは世界で初めてVTRを開発した企業である。

 磁気ヘッドの研究は、菅谷汎(その後映像グループ開発企画室長)を中心に進められた。菅谷は中尾の秘蔵っ子で有能な研究者である。松下電器のVTRヘッドとして主流になるホットプレス・フェライトヘッドや、アジマス記録方式を発明した。ビデオトラックを隙間なく記録するこの方式は当時としては非常に革新的だった。ソニーのベータマックスはこのアジマス方式をカラー化したものである。次いで菅谷は1968(昭和43)年に、世界初の2時間記録VTR(白黒、テープ幅1/2インチ、2ヘッド回転式)を開発した。

 のちにスタッフに転じた菅谷は、技術参謀として4時間VTRをプロモートした。米国の家電大手RCAと組む際、RCAは「米国市場を攻めたいのであれば、アメフトが録画できるよう録画再生は3時間が必須」と言った。菅谷はその要望に添えるようにするため各方面からの反対を押し切り、開発部隊を組織したのである。国内市場に閉じず、世界展開を見据えた仕様にするという決断は現代の開発者も参考にすべきところだろう。菅谷はこうしてベータマックスに対するVHS優位を決定づける、陰の立役者となった。

人も商品も生かす絶妙な「見る目」