松下幸之助を支えた右腕エンジニア・中尾哲二郎氏の存在は、実はあまり知られていない。

 1918年に創業し今風に言えばベンチャーだった松下電器は、今や世界の代表的なメーカーへとその姿を成した。一代にして世界企業を作り上げた天才経営者・幸之助のベスト・パートナー――それが中尾だった(写真1)。

写真1●松下電器歴史館「創業の家」コーナーで語り合う往年の中尾哲二郎(右)と松下幸之助(松下電器歴史館提供)
写真1●松下電器歴史館「創業の家」コーナーで語り合う
往年の中尾哲二郎(右)と松下幸之助(松下電器歴史館提供)

 中尾は、いったいどんな男だったのか。中尾が持つ技術哲学。部下である技術者たちのマネジメント。何よりもその暖かい人間性。幸之助は中尾を「希有の 人」とまで高く評した。中尾が松下電器に遺したエピソードは、ものづくりの対象がハードウエアからソフトウエアへと広がった今でも、数多くの示唆を含んで いる。

 第一部では、中尾がどんな姿勢で製品開発に取り組み、どんな成果を遺したのかを5回にわたり探っていく。中尾は数々の商品を開発した優れたエンジニアであり、人間味溢れたマネジャでもあった(写真2)。電熱器、乾電池、自動炊飯器、カラーテレビ、VTR…中尾の一生と松下の歩みを時系列でたどりつつ、中尾の人物像を見ていこう。

写真2●中尾哲二郎の開発した商品の数々。アイロン(左奥)から高性能乾電池(左手前)まで(松下電器歴史館提供)
写真2●中尾哲二郎の開発した商品の数々。 アイロン(左奥)から
高性能乾電池(左手前)まで(松下電器歴史館提供)


 1923(大正12)年末も押し迫った頃だった。この年創業5年目の松下電気器具製作所(現在の松下電器産業)は、松下幸之助の開発した独創的な「砲弾 型自転車ランプ」をヒットさせていた。関東大震災が発生した年だったものの、従業員も50名ほどに増え、活況を呈していた。

 松下幸之助は工場で器用に旋盤を使う見慣れぬ小柄な青年に目を奪われた。手の運びや動作が素人離れしている。「君はどこの者かね?」と声をかけた幸之助に、「私は檜山のもので、ちょっと旋盤を拝借しています」と青年は答えた。

 この瞬間こそ、29歳の志高き青年実業家・松下幸之助と、あくなき追求心に燃える22歳の青年技術者・中尾哲二郎の天啓にも等しい出会い、この先60年にわたる二人三脚の始まりでもあった。

死別と苦労を重ねた少年時代