それでは筆者はどのように読み替えているか、いくつか例を挙げてみよう。

一、記者は、いつでもこれでよいという満足を感じずに一生を過ごすものだ。

 「この話を取材でき、しかもうまく書けたらもう満足だ」と思ったことは一度もない。そう思ったら引退(失職)ではないだろうか。

一、読者評価は大切なものだが、あまりにそれに動かされては自分を見失うことになる。

 Tech-On!読者に関係のない話になって恐縮だが、日経BP社には読者評価の仕組みがある。雑誌を発行した後、読者にアンケートをして、どの記事を読んだか、役に立ったか、と聞き、それを集計して記事ごとに点数を出す。読者評価であるから、結果に噛みつく訳にはいかないが、といって点数に一喜一憂するようではろくな記者にならない。若い記者ほど点数を気にする傾向が強い。若手には「点数が良かった時は胸を張り、悪かった時は早く忘れて次の企画を考えるべし」と言っている。

一、記者はいつまでも若く、感激性を保持せねばならない。でないと合理主義的な取材と執筆活動に陥ってしまう。

 記者に成り立ての頃、先輩から「記者のピークは30代前半」と言われた。10年くらいやると取材のこつがつかめてくるし、この辺りが一番元気だからである。ただ、ピークをとうに過ぎた記者として最近思うのは、実年齢はあまり重要ではない、ということだ。「その話、面白いです」と言い続けられれば記者を続けられる。逆に若くても新事実に感激しない人は記者には向かない。この話を書くにはこことあそこに取材すればよい、と常に合理的に動く記者も大成しない。筆者はどうかと言うと、専門であるはずのIT(情報技術)分野で滅多に感激しなくなった。「その話は前に聞いた」と思ってしまう。その代わり怒ることが増えているが、立腹して原稿を書いてはならない、と自戒している。

一、取材中は臆病に、原稿を書く時には自信をもて。

 人に会って話を聞くというのはかなり神経を使う仕事である。聞いた話をまとめる時にも気を使うが、その使い方は取材時とはまったく違う。原稿を書く行為は、目の前にはいない読者に向かって球を投げるようなものだから、ある程度の思い切りがいる。細かいことばかりに気を使っても、球が届かなければ意味がない。断っておくが、細部に配慮しなくてよいということではない。筆者の原稿を読んでいた方が筆者に初めて会った時、「想像していた人とまったく違いますね」と驚くことがある。人に会っている時の低姿勢な筆者と、原稿を書いている時の強気の筆者とどちらが本当かと聞く人もおられるが両方とも筆者である。

 以上のようなことを書いたり、言ったりすると、「人に会った時は芝居をしているのか」と詰問調で聞かれたりする。「そうだ」と答えると面倒な事態を引き起こすので「いえ、そういうわけでは」と曖昧な返事をする。

 「俳優や作家より政治家や経営者の方が偉いということはない」のだが、芝居をしたり、架空の話を作ることを実業の世界に持ち込むのはいけない、とする人がいる。確かに、「一芝居打つ」と言った時の芝居は人を騙すという意味だし、「芝居気がある」も人物評価に使う場合、あまり良い意味ではない。

 しかし、実はすべての人が何らかの芝居をしている。上司に対して、部下に対して、常に素のままで接している人はいないはずだ。他人に対してではなく、自分に対しても芝居をする。心得にあった「俳優は絶対の確信と、限りない反省と、この裏表を絶えず忘れてはならない」は、すべての人に通じる名言と思う。仕事をしていて、ここぞという時には、「自分よりうまくこの仕事をこなせる人はいない」と強気の役を演じる必要があるが、それだけではうまくいかない。「自分のやっていることは問題ばかり目につくなあ」と反省し続ける気弱な役を同時に演じないといけない。

 技術者や研究者の方は「自分には確かな技能がある」と自信を持ったり、「いや、まだまだ」と反省することを繰り替えしておられるのではないか。「昨日よくできても昨日のように」取り組むのではなく「今日は今日の気もちで」取り組む。翫右衛門の心得は技術の世界にも通じると思う。