虚実の谷間を往来した寺田寅彦

 さて一回目のネタとして、記者という職業を取り上げたので、第二回目も記者やジャーナリズムについて書いてみたい。冒頭で紹介した通り、今回のネタは物理学者寺田寅彦のジャーナリズム批判文であるからTech-On!と関係がないわけではない。ちなみに寺田寅彦は東京帝国大学理科大大学教授でありながら、夏目漱石門下の随筆家、俳人でもあった。漱石の『我輩は猫である』に登場する寒月と、『三四郎』の主人公はともに寅彦がモデルと言われている。

 寅彦は虚実の谷間を往来した人物の一人である。本連載の主旨文に「実用を優先する技術を実とすると、仮説や理論を優先する科学は虚と位置付けられる」と書いたが、随筆や俳句といった文学と比べれば、寅彦が研究した地球物理学や地震問題は実とみなすこともできよう。二つの世界を論じた『科学と文学』という随筆を寅彦は書いている。

 1933年1月、寅彦は『ニュース映画と新聞記事』と題した一文を映画評論に寄せ、その末尾に次のように書いた。原文は正字表記だが略字体にして引用する。文中に出てくる「孩児(がいじ)」とは三歳くらいまでの幼子を意味する。

広い意味でのニュース映画によつて、人間は全く新しい認識の器官を獲たと云つても甚しい過言ではない。さういふ新しい人間として吾々は未だほんの孩児のやうなものである。従つて期待されるものはニュース映画の将来である。演劇的映画などは一日々々に古くなつても、ニュース映画は日に日に新に、永久に若き生命を保つであらうと思はれる。さういふ将来に於ける新聞は最早社会欄なるものの大部分を喪失して居るか、さもなければ、本当の意味での「記事」となつて、真に正確で啓蒙的な記述に変わってしまつてゐるであらう。

「写真は現象そのものである」

 このように75年前、寅彦はニュース映画に強く期待するとともに、「真に正確で啓蒙的な記述」がされていない新聞記事は喪失すると予測ないし期待した。その理由は、ニュース映画には実があり、新聞記事は虚と見ていたからだ。ここで言う虚実には正誤や優劣の意味も含まれる。寅彦は次のように書いてニュース映画の実に期待する。

映画の場合に於てもカメラを向け動かすものは人間であるから、其処に選択の自由があり従つて人為的な公式定型の参加する余地は十分にある。但しレンズとフィルムは物質であつて何等の既成概念もなければ抽象能力もない。一見馬鹿正直のやうであつて、しかも広大無辺の正確なる認識能力を所有して居るのである。(中略)写真影像は現象の記載ではなくて、現象其物だからである。其代りに、或はそれだから、写真は事象の全体を系統的に把握する能力をもつて居ない。それをするには撮影技師の分析的頭脳と、フィルムの断片を総合する編集者の総合的才能を必要とするのである。

 「人為的な公式定型」とは、あらかじめ一定の書式を用意し、そこに何でも押し込んでしまうことを指す。寅彦はいくつかの前提条件を付記してはいるものの、ニュース映画が「現象其物」を記録できることを評価している。一方、新聞記事に対する批判は極めて厳しい。

新聞記事は此れに限らず、人殺しでも心中でも、皆一定の公式があつて、簡単に無理やりに其の型に嵌込んで書いてしまふから、どの事件も同じやうに不合理非常識な概念の化物で捏ね上げられたものになつてゐるのは周知の事実である。