簡単にいえば、自己抑制ということである。規模や領域を拡大しない。メーカーという業態でいうならば、大手総合メーカーになることを志向するのではなく小さな規模の一芸に秀でた専業メーカーとして生きていくということだろう。技術経営っぽくいえば、垂直統合型の業態を目指さず、水平分業のオープンなビジネス・スタイルを志向するということか。
 
 そういえば、先に挙げた京都のエレクトロニクス関連企業群も、京セラを除けばみな「一芸」をもって業界で名を馳せる専業メーカーである。

どうしても上から目線

 もっとも、多くの専業メーカーがただ多数に存在しただけでは「オープンなビジネス」は機能しないだろう。そもそもみな個別には専業メーカーだから、自分だけではビジネスが完結しない。「一芸のプロ」が集まって、1社ではとうていなし得ない大きなビジネスを動かすためには、連携すること、今風にいえばコラボレーションが欠かせないのである。
 
 かつては「自前主義」で鳴らしていた大手総合メーカーだって、いまやコラボレーションは欠かせないものとして大いに推進している。少なくとも、当人たちは前向きに取り組んでいる気になっているようだ。しかし、何人かの中小企業経営者は「大企業が主導するコラボレーションは、本当の意味でのコラボレーションではない」と断言しておられた。

「先方はそんな意識はないのでしょうが、大企業と一緒にお仕事をさせてもらうと、いろいろな局面で見下されている感じを受けてしまう。あくまで大企業と中小企業の関係は元請けと下請け、という意識から抜け出せないようですね。ところが、多くの米国企業は違います。従業員1人の会社と10万人の会社が組んでも、あくまでその関係はイコール・パートナーシップ。上下といった感じを受けることはまずありません。さすが『オープン・ビジネス』の本場だと感心します」

 だから、「自身にはない特技をもった専業メーカーと組む」というかたちの連携は、なかなかうまくいかない。結局は、同じような業態をもつ総合メーカー同士が徒党を組むのが関の山。突出した技術やアイデアを持ち寄って自社だけでは到底なし得ないビジネスを創造するという本来の連携は、このような意識では成立し難いだろうという。
 
 かつて聞いたこんな話を思い出して、ああそうかと腑に落ちた。「大きいこと、強いことはエライことではない」という「京都的な」意識こそ、複数の組織や人が連携する際に欠かせない価値観なのではないかと思い当たったのである。
 
 相手の属している組織の大きさや業績が問題なのではない。相手が保有する技術の優位性やアイデアの先進性こそがすべてなのである。それが素晴らしければ、相手が大企業であろうと中小企業であろうと個人であろうと、敬意をもって手を携える。先の証言で槍玉にあがった大企業は、その意識が希薄なのかもしれない。だから、小さな企業に「上からものを言う」という印象を与えてしまう。けれど、多くの米国企業にはそれがあるらしい。同じように、京都にもそれがあるようだ。そう信三郎氏はいう。

「東京の人はよく、どこどこ(会社名)の○○さんって言うでしょ。あれは京都にはないなぁ。ただの○○さん。その人がどこでどんな仕事で何をしているかなんて、普段はまったく気にしていない。ただ単純に、ええやつだから、おもろいやつだから付き合っている。で、たまに仕事の話なんかになると、『そういえばあの人、なにしてはる人やったかなぁ』なんてことになるんだよね」。

発起人は禅僧に鮨屋の主人

 打算ではないから、本当の信頼関係が築けるということなのかもしれない。実際、そんな「仲間たち」に、あの事件で信三郎氏は大いに助けられることになるのである。