民芸運動のもう一つの特徴は、手仕事にこだわったことである。そのことは、ウィリアム・モリスがその時代背景もあり、結果として手仕事を重視したことに由来するのだろう。民芸運動では、それが厳格化されて引き継がれる。柳は「もし機械が美を殺すなら、世をも殺しているのだと悟らねばならぬ」とまで言った。

 けれど本来、「手仕事」は手段であり運動の眼目は、「特定階層が独占してきた美を開放し、民衆の生活と一体化させること」、つまり「美の量産手段の確立」にある。だから、それが当然の流れとして欧州では、20世紀初頭から工業生産技術を「芸術開放」の手段として積極的に利用しようとする動きが出てくる。その流れの中から生まれたのが、芸術様式としてのアールデコであり、美術学校のバウハウスである。

日本工芸の系譜は欧州の工業製品に

 アールヌーヴォーが複雑かつ優美な曲線を多用したのに対し、アールデコは明快な直線と円弧を特徴とする。バウハウスで試作されたランプや家具などの作品も、多くは直線や円を使って構成されている。つまり、機械を使って工業的に生産することを前提とし、生産性を考慮しながらどこまで美しさを追及できるかということを突き詰めようとしたのである。それは、今日まで延々と続く近代デザイン理論そのものであり、それを生み出したバウハウスは、記念碑的存在として「フォルム・フォローズ・ファンクション」という名言とともに後世まで記憶されることになるのである。

 つまり、日本の工芸品から多大な影響を受け欧州で生まれた芸術解放運動は、欧州ではその理念が工業製品に引き継がれていく。ところが日本に逆輸入されたその運動は、あくまで手仕事にこだわり、工芸界内にとどまりつつ一派を形成し、その系譜は工芸品の一部に引き継がれたのである。もちろん、それが発祥した当時は日本にも「様式としてのアールデコ」は伝播し、バウハウス的考え方も多くの人たちによって紹介された。しかし、日本人の多くが装飾様式としてのアールデコを流行として受け入れつつも、工芸品の理念から生まれた「民芸思想」を工業製品の理念であるバウハウスの理論に「アップデート」するほどの運動は、この国ではついぞ現れなかった。

 この歴史を振り返ってみて分かるのは、欧州の工業製品は「高付加価値商品」である工芸品の系譜に連なるものであり、日本の工業製品はそうではなさそうだ、ということだ。「日本は工芸か工業かという葛藤を経て自ら理念を生み出すことなく、葛藤の末に生まれた近代デザインの理論を完成品として輸入し、工業の世界に植え付けた。その差が日本と欧州の差」と、デザイナーでもある某大学教授は指摘しておられた。