蘇民祭を見ていればよーくわかる。私に嘘はないと訴えるためには、素っ裸になる必要があるのだ。蘇民袋を取ったところで、一年間無病息災になることはあるまい。いや、あるのかもしれないからそれはそれとして、もっと大事なことはこの祭りと通じて「私は嘘をつきません」「心の底からこの祭りを、つまりは地域住民を信じています」ということを行為で示すことなのだと私は思う。素っ裸に戻り原初の人間になることは、あらゆる欲望を認め、さらに何の制約がなくなっても、その欲望を己自身で制御できることを示しているのである。

 祭りは、近代法治国家に暮らす人間にはまったく無用なことなのかもしれない。我々の国ではあらゆる幸せの追求を法の範囲内で認めるのだから。そしてせっせと法の抜け穴を探すか、まんまと法の網をかいくぐった勝者に嫉妬する。

 その近代国家を蘇民祭は否定し、その近代国家から「わいせつ」だと攻撃を受けた。だが、われわれの文明の成り立ちと今の活用法を見るなら、それが「わいせつ」なのか、そういうレベルで議論すべきものなのかは自明のことだ。

 奥州市ではたぶん、「何もかも法律で取り締まらなければ偽食品が出回る」なんてことはないだろう。祭りは真実の表現だ。人を欺くことはない。

 そして、その彼岸に暮らす私は欺かれる。だまされるのではないかと毎日びくびくする。そのかわり、冬のさなかに氷の張った川へ入らなくてすむのだが。実際、口ばかり達者な私はセントラルヒーティングの家に籠もり、こんな原稿を書いていられるのである。

著者紹介

神足裕司(こうたり・ゆうじ)
1957年広島生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。筒井康隆と大宅壮一と梶山季之と阿佐田哲也と遠藤周作と野坂昭如と開高健と石原裕次郎を慕い、途中から徳大寺有恒と魯山人もすることに。学生時代から執筆活動をはじめ、コピーライターやトップ屋や自動車評論家や料理評論家や流行語評論家や俳優までやってみた結果、わけのわからないことに。著書に『金魂巻』『恨ミシュラン』あり。