そして今年も、最後はやはり裸の男が蘇民袋を切った。そもそも暗闇でクライマックスを迎えるのだから、公然わいせつ罪もあったものではない。

 この祭りを奥州市の人々は大切にしている。ただ、なぜ大切なのかと問われても「伝統だから」としか言わない。で、私の考えたところを述べたい。いや、私というより山崎正和さんの『社交する人間』などの著作から教わったことと、この事例が重なってみえただけなのだが。

 男たちが裸で争うのは野蛮である。どこの祭りでも喧嘩があり怪我人がでる。だが、一年に一度の祭で野蛮な行為をすることは、自分たちの文明を見据えるためではないか。山崎氏はこれを「くしゃみでさえ洗練されていく」と例えている。ハックション、と人はリズムを取るではないか。そんなことからはじまり、泣くことも食べることも、すべてを私たちは文明化する。

 その原初にあるのは「腹が減ったら食べたい」「自分だけ得をしたい」といった本能だろう。蘇民祭をはじめとする多くの祭は、その本能を開放するものなのだ。けれど、解放しつつ目を背けるような野蛮には戻らない。それはわれわれが文明をわがものとしたからだ。

 理屈を言うけれど、たとえばホッブスはこれをリバイアサンと呼んだ。怪物である。その怪物は国家に預け、民主的にその暴力を制御することが唯一の道だという。だから、国家権力を行使する政治家を選ぶ選挙は大切なのである。合理的な方法である。だがこれも欠陥はあるようだ。「法で定めたことの範囲なら何をやってもいい」という利己心を制御できないことだ。

 また理屈を言うけれど、だから完璧な法はないというのが「法の精神」ではないか。いや、アダム・スミスは人々が利己心を発揮すればするほど「神の見えざる手」のためにはよろしいのだという。

 法か善意か、どっちかわからないまま世界は自由経済に覆われ、昨年日本を象徴する一文字は「偽」になった。だが、私たちはいかに経済万能、商売は正当で「お金儲けは悪いことですか」と説かれたとしても、やはり醜いものは醜いと感じてしまう。