「標準」の幻想

 そんな「流行り」は、以前にもいくつかあった。例えば1990年代に流行ったのは、「スタンダード戦略」である。いわゆる「Wintel」が絶好調で、その収益力の源泉が「彼らの製品がデファクト・スタンダードになったこと」にあるとみなされたのだ。「自分たちもそうなりたい」と考えたのか、日本のエレクトロニクス・メーカーは口裏を合わせたように「スタンダードを獲得することが極めて重要」と言い始めた。つまり、自分や自分たちが提唱する規格や方式をスタンダードにすることに、激しい情熱を持ち始めたのである。

 象徴的な例が、DVDや次世代DVDの規格競争。経営論的にいえば、規格競争で勝ちを収めることによって期待できるメリットは大きく二つあるだろう。一つは先行者利益、もう一つは知的財産権による参入者制限とライセンス収入である。けれど実際には、規格提唱者が市場で断トツの強さを発揮したわけでも、知的財産権で巨額の収入を得たわけでもない。自陣営の賛同者を少しでも増やそうと、規格策定の仲間を広く募った。その結果、リスクは小さくなったけど、リターンもえらく小さくなってしまったのだ。

 ただ、それでも日本メーカーが提唱した規格をグローバル・スタンダードにできた。それは、プレーヤのほとんどが日本メーカーだったからだろう。国際競争の中で同じような多数派工作は通用しない。先日、ソニー元会長の出井伸之氏にお話をうかがった際、こんな指摘をしておられた。「標準化は、本質的に日本が最も不得手なこと。何しろ国の人口がEUやアメリカ、中国に比べて圧倒的に少ないのだから」。人口が少ない、つまり背にする市場が小さいということが極めて大きなハンディになるのである。

またぞろ?

 そんなハンディを負っている。それをやっとの思いで乗り越えても、得られるものは少ない。そうであれば、あの「スタンダード」の大合唱は何だったのだろう。そもそも、スタンダードとは何なのか、何をもたらしてくれる可能性があるのか、成功者の戦略は模倣可能なのか、であれば、自分たちはどう行動すべきなのかといったことを深く考察していたのだろうかと、ちょっと疑いを抱いてしまったりもする。「Wintelを見ればわかるだろ、とにかく自分たちの提唱する規格をスタンダードにさえできれば、あとは利益が勝手についてきてくれるのさ」とか、すごく単純に思い込んでいたのではないかと。まさかとは思うけど。

 で、今どきの「ブランド戦略」である。個人的には、今後「高付加価値路線」に舵を切らざるをえない日本企業としては、ぜひマスターしなければならない重要な方法論だと思う。だから、この議論が盛り上がることに異論はまったくない。けれど、船場吉兆のような事件が起きてしまうと、「自分たちのブランドは強いのだ。このブランド価値を上手に使えば、簡単に収益が上げられる」とか、よくも考えずにまたぞろ思い込んでいるだけなのではないかと、疑ってみたくなるのである。

 船場吉兆の場合、そもそも自社で作ってもいないものだけでなく、自分たちが強みを持たない洋菓子にまで吉兆ブランドを付けてしまった。それだけでも、すでにブランド管理の基本中の基本を逸脱している。まさにかつての「便所ゲタ」をそのまま再演してしまったということだろう。過去の苦い経験で実証済みの「じわじわ沈んでいく」道を選んでしまったのだ。しかも、ダメを押してしまった。詐称、責任逃れとくれば、まず轟沈はまぬがれ得まい。

 報道によれば、吉兆グループの経営陣に名を連ねる創業家(湯木貞一氏を初代として三代目に当たる人たち)によって組織される「青山会」なる集まりが、月に1度のペースで開かれていていたらしい。この席で船場吉兆の躍進振りが話題になり、保守路線をとってきたグループの経営陣たちは「私たちの考えはもう古いのか。船場吉兆さんの新しいやり方も学ばなければならないのかも」と話していたのだという。

上から下か,下から上か

 何をご自身たちで古いと感じられていたのかはよくわからないが…(次のページへ