「輝かしい稜線」と「山麓のかそけき樹木」

 この本の主題は,「生命とは何か」「生きているとはどういうことか」を考えることであるが,その一方で,それを探求する方たちである当事者の生の姿というか人間ドラマが,如実に描写されていて実に興味深い。そして福岡氏の眼差しは,華々しい成果を挙げてノーベル賞に輝いた人間だけでなく,それを陰で支える人々にも向けられる。

 福岡氏は書く。「しかし私が語りたいのは,輝かしい稜線をつなぐことではない。今では暗く広い夕闇の中に沈んでしまった山麓のかそけき樹木のざわめきについてである」(同書p.17)。

 ここで福岡氏が言う「輝かしい稜線」は例えばDNAの二重らせん構造を発見したワトソン氏とクリック氏,「山麓のかそけき樹木」はオズワルド・エイブリー氏(ロックフェラー医学研究所)とロザリンド・フランクリン氏(ロンドン大学)のことである(以下,敬称略)。

 この本を読むと,偉大と言われる発見や発明も,いわゆる「発見者」とされている研究者だけで達成されたものでないことが分かる。先達の知見,そしてライバルも含めた同時代人たちとの知的交流…。ここで,エイブリーは前者(先達),フランクリンは後者(ライバル),ということになるだろう。このエイブリーとフランクリン,二人の生き様を読ませていただいて,ある共通する姿勢があるのではないかと思った。ここでは,その姿勢を二つほど紹介してみたい。

「帰納的」と「演繹的」

 その一つは「帰納的」だということである。福岡氏が特に「帰納的」だとしたのがフランクリンのやり方である。これに対してワトソンとクリックは「演繹的」だったという。

 ワトソンとクリックは一攫千金を夢見て,DNAの構造を「きっとこうなっているはずだ」というモデルとして机上で考えた。自ら実験を行いデータを収集しようとせず,ボール紙や針金で作った分子モデルを動かしながら,ああでもないこうでもないと議論を繰り返した。偉大な「発見」に一挙に迫るためには,自らコツコツと実験を繰り返していくような行為は「回り道」なのかもしれない。

 これに対してフランクリンは,DNAをX線結晶学の単なる一対象として,個々のデータと観察事実だけを積み上げていくという「帰納的」なアプローチを採った。彼女は,DNAが二重らせん構造であることをほぼつきとめていた。

 一方のワトソンとクリックは演繹的手法を繰り返していたが,なかなか真実にはたどり着けなかった。そのためには,帰納的なアプローチによって積み上げられた事実が必要だったのである。ワトソンとクリックに足りなかったもの---。彼らはフランクリンの研究成果を盗み見て大発見につなげたのだと見られている。

 これに対して,フランクリンは淡々と,DNAの構造解析が終わると,次の対象に研究テーマを移す。「一攫千金」も含めて,DNA構造を解明することの「意味」が分かっていなかったのか,分かっていても興味がなかったのか,研究者のモチベーションを考えるうえでも興味深いところである。

「現場の質感」と「ひらめき・直感」

 もう一つ,共通する姿勢ではないかと思ったのが「現場感覚」ということである。エイブリーは,肺炎双球菌の1タイプであるS型菌(病原型)から DNAを抽出し,これをR型菌(非病原型)に混ぜるとS型菌に変化するという実験データから,遺伝子の本体はDNAであることを示したが,当時の研究者たちの猛烈な非難にあう。同氏はそうした非難に対しても立場を変えずに,地道な実験を繰り返した。こうしたエイブリーの態度について福岡氏は次のように書いている(同書p.55)。

エイブリーを支えていたものは,自分の手で振られている試験管の内部で揺れているDNA溶液の手ごたえだったのではないだろうか。DNA試料をここまで純化して,これをR型菌に与えると,確実にS型菌が現れる。このリアリティそのものが彼を支えていたのではなかったか。別の言葉で言えば,研究の質感といってもよい。これは直感やひらめきといったものとはまったく別の感覚である。

 直感やひらめきに頼って,演繹的アプローチによって名声と一攫千金をものにしたワトソンとクリック。その一方で,現場の実験データにこだわって帰納的アプローチによって真実に迫ろうとしたフランクリンとエイブリー…。

 ここで考えたいのは,偉大な発見がもたらされる条件としては,大胆な飛躍をもたらす演繹的アプローチとそれをデータ面で支える帰納的アプローチの両方が必要ということではなかろうか,ということである。福岡氏の言う「研究」を「現場」と言い換えると,「現場の質感」と「ひらめき・直感」の両方だと言ってもよいかもしれない。この二つを一人の人間(チーム)が実行するのは難しそうだ。他人の成果を盗み見るという倫理的な問題は別にしても,複数の人間(チーム)がなんらかの共同作業を行うことが大切だということを,「山麓のかそけき樹木」は小さな声でささやいているのかもしれない。