原因はガチガチの官僚統制にあるという。彼に言わせれば「官僚たちはビジネスに疎い。技術のことなど何もわかりはしない」。それなのに、何をやるにしても彼らの決済が必要なのだ。しかも、細目まで決められた予算というものがあり、臨機応変な動きが一切できない。「よく言われるように、日本は社会主義の国なんですねぇ」とこぼす。

 その話を聞いて、以前に国家プロジェクトの技術評価委員会なるものに参加させていただいたときの光景を思い出した。そのプロジェクトには、技術開発と併設するかたちでビジネスモデル開発のプログラムが組まれていた。プロジェクトの実施者はさる大学の先生で、それを統括するのはさる公的機関だ。技術開発の成果自体は良かったのだが、続いて行われたビジネスモデル開発の成果発表がプレゼンテーションとしてあまりに面白く、それに反して内容があまりにお粗末に聞こえたものだから、堪りかねてこう発言してしまった。

「ビジネスモデルの開発は、存亡をかけて日々それに取り組んでおられる企業の方々に任せて、国のプロジェクトとしては技術的テーマに絞った方がよかったのではないでしょうか」

 「膨大な開発費用を税金からもらっておきながら、何それ。世間をナメてんじゃないか? 内容の粗末さを話の面白さでゴマかしてるんじゃねーよ」と言わなかったのは、私が一応はオトナだからである。けれども、心中ではかなりキレていた。それが伝わったのか、プロジェクト実施側の席はしばし静寂に包まれたのだが、やおら中央官僚出身と思われる「ある公的機関のお偉方」が起立し、こんなふうに発言した。

「任せられれば私たちも楽なのですが、どうも企業はビジネスモデルの開発がうまくない。だから、我々がそれをやって、企業を指導しなければならんのです」

 こうした経験があったものだから、先のメーカーOBの方の憤懣は、抱きついて背中を叩き合いたいほどよくわかった。そしてついでながら、「日本は社会主義国」ということについて、「格差」ということを離れて考え直してみなければならないと、勝手に感じてしまったのである。

 メーカーOBの方の言う「社会主義国」とは、「格差が少ない」という意味ではないだろう。たぶん「計画経済的」「国家統制的」な国であるということである。もちろん、日本は計画経済を標榜する国ではない。けれどもかつて、それを厳格に実施していた歴史をもっている。

 第二次世界大戦下のことである。第2次近衛内閣で商工大臣を務めていたのは阪急の創業者で資本主義的財界人である小林一三、次官は計画経済論者、統制論者である岸信介だった。当然、二人の意見は相容れない。岸は「企業は利益を貪る。戦下の非常時においてこれは許されない。官僚が企業を統制、監視、指導していかねばならない」と説き、小林氏は「利益こそは企業の活力である。それを絶てば日本の産業は必ず停滞する」と反論し、ついには「岸はアカである」と批判したらしい。この歴史的な政策闘争は、どろどろとした政争に発展し、軍部とむすびついた岸側の勝利に終わる。日本は彼が意図した官僚統制の計画経済制を導入するのである。

 この、計画経済的な統制システムが、「護送船団方式」などという子孫を残しながら戦後の日本にも受け継がれ、今日に至るまでその命脈を保っているのではないかと、私は思っている。ただ、この官僚統制色の強いシステムは、ある時期までは日本が復興と高度成長を達成するうえで大きな役割を果たしたと今日では評価されているようだ。経済成長のある過程ではこのやり方が有効なのだという説もあり、「当時の官僚は極めて有能だったからうまく機能しただけ」との意見もきく。

 それはそうとして、この遺構が未だに存在しているとしたら、それは望ましいことなのだろうか。

 そこがよく分からない。それでも、どちらだと思うかと聞かれれば、「それはもう終わりにした方がよいのでは」と答えたい。先に挙げた委員会の経験などもある。メーカーOB氏の苛立ちもある。さらにもう一つ、あまり理由にもならない理由を挙げるとするならば、「小林一三が一身を投げ打ってでも守ろうとしたものの価値を信じたい」という思いがある。

 小林一三という人は、その評伝などを読むとよほど傑出した企業家だったようだ。彼が編み出したもの中でも有名なのは、阪急で実践した独自のビジネスモデルである。都市と郊外を鉄道で結ぶ。都市側の起点には駅と併設するかたちで百貨店(大阪梅田の阪急百貨店)、郊外側の終点には娯楽施設(旧宝塚新温泉、宝塚大劇場)を作り、イベント(宝塚歌劇団)を開催する。そして、その間の沿線には住宅地を開発する。これらの相乗効果で、地域を発展させながら私鉄の利用客を増やそうというモデルである。東急など、多くの私鉄各社がこのモデルを模倣し今日の隆盛を得た。

 もう一つ、有名な逸話がある。(次のページへ