桜の開花は、事前予想ほど異常なものではなく、「やや早」程度で落ち着きそうだ。結果は穏当なものであったが、2月のあまりの暖かさにおののき、それを受けた記録的な開花予想におののき、その後に日本列島を覆った寒気にもおののき、「異常気象は相当なものらしい」という印象だけはしっかり人々の脳に刻まれた。

 そして、環境に対する意識は一層高まる。テレビをみると最近、大手メーカーをはじめ各社が「いかに我々は環境に配慮しているか」を必死で訴えるCMがやたらと目立つ。消費者の意識変化に企業が敏感に反応したということだろう。

 人々が地球環境について真剣に考えるようになった。それはよい。だが一つ、心配なことがある。環境意識の高まりと同期するように、「科学技術不信」とも呼ぶべき感情が台頭しているように感じることだ。

 地球環境への関心が高まると、人の目は自然へ向く。その結果として生まれるのは、「人工的なもの」「複雑なプロセスを経たもの」を遠ざけ、「自然なもの」「シンプルなもの」を好むという傾向である。最近いわれる「塩ブーム」も、その一形態ではないか。先日初めて入った焼肉店では、10種類近くの塩が出された。肉を鉄板の上に乗せ、そこに好みの塩を振りかけよ、という。他の調味料を加えず、シンプルに塩だけで素材の味を引きだそう、ということなのだろう。

 焼肉店には、塩の説明書まで置いてあった。それによると、10種類近い塩のほとんどは昔ながらの製法による「天然塩」であるという。「天然でない塩」があるのかと首をひねりつつ説明書を読み進んだ。ある塩は、海水を鉄釜で薪炊きして作られているらしい。相当に高価な塩なのであろう。

 そこに落とし穴がある。薪を燃やして海水を煮詰めることで作られるその塩は高価であるだけでなく、非常に安価なイオン交換膜法で作られたJTの塩より、明らかに環境負荷が高い、ということだ。

 調味料でも同じことが言える。「自然派」の人々は、「味の素」を使わず、「天然鰹出し」だけを使った料理を喜ぶ。だが、鰹出しがどうやって作られるかを考えてみるとよい。石油で動く船が世界中の海を右往左往して捕獲した鰹を使い、それを加工し、やっとできた鰹節をふんだんに使い、そこに含まれるグルタミン酸ソーダなどのうまみ成分を煮出し、そのガラは捨ててしまう。だから、化学的手法で作られた味の素より格段に高い。そして環境負荷も格段に高いはずだ。

 「天然××」のほうが環境負荷が高いというのは理屈だが、感情は理屈で動かない。「天然のものはいい、人が科学技術を駆使して作り出したものはよくない」という、極めて単純な判断基準がそこにはある。この結果、時として「環境意識が高いが故に、かえって環境負荷の高いものを選択してしまう」。何という矛盾か。

 さらに憂慮すべきことがその先にある。「科学技術に対する不信感」の台頭は、今日囁かれ始めている「理系離れ」「理系学生のレベル低下」を加速させるだろう。科学や技術の担い手を失えば、世の中が停滞へと向うのは必然だ。

 確かに、科学と技術は環境問題を引き起こす原因を生み出した。「不信感の台頭」を引き起こすのはやむを得ないかもしれない。だが、科学と技術は、環境問題の解決と緩和に大きく貢献してきたこともまた事実なのである。

 「技術を駆使してメーカーは頑張っている、そのことを知らしめたい」という思いが、冒頭で触れた先端技術系メーカーの「環境広告」につながっていく。だが、それを知らないほど消費者は無知だろうか。もし、知っていても拭い去れない不信感が残るのだとしたら、膨大な費用を投じて制作した広告は空しいものとなる。

 もう少し考えてみよう。漠然とした不信感は、小さな無数の不信感が堆積してできた集合体であり、環境問題と直接の因果関係を持つとは限らない。それぞれ一つは、見逃してしまいたいほど小さなものかもしれないのだ。

 例えば、先に挙げた「味の素」。筆者が幼いころ、「これを沢山食べると頭がよくなる」と言われていたらしい。筆者を「頭のよい子」にしたかった両親は、あらゆるものにこれを振りかけ、せっせと食べさせた。ところが、それから随分たって、「どうも味の素は体によくないようだ」という声が聞こえ出した。「今さら言われても困るじゃないか」というのが個人的な感想だが、この変化が一般の人たちに与えた印象は、「新たに作り出された人工物は何だか信頼を置けない」ということだろう。

 化学調味料が頭や体に効くかどうかは、いずれも風説に過ぎない。以上は人々が風説に右往左往したという、よくある事件に過ぎない。まあ、許そう。けれど、個人的に納得しがたいことがまだある。テレビの「横長画面」だ。

 それが登場したのは、もう20年近く前だっただろうか。タテヨコ比4対3のテレビに代わり、16対9のテレビが大挙して店頭に並ぶようになった。テレビメーカーはこう言っていた。「これから横長画面の放送が主流になる。その予測に基づき、未来を先取りするかたちで私たちはこの最新テレビを投入する」と。けれど、消費者が身近に聞くのはメーカーのコメントではなく、テレビの横で笑顔をたたえる店員の話だ。いわく、「これから放送はすべて横長になって、現行の4対3の放送はそのうち、なくなる。だから、この横長画面テレビに買い換えないと…」。

 それからかなりの時間が経ったが、消費者が良く見るバラエティー番組や報道番組は、依然として4対3のまま。店員の説明は、結果として嘘だったわけだ。百歩譲ってそれも許そう。それでも到底納得できない点が残る。それは、4対3の番組を無理やり横に引き伸ばして16対9の画面に写してしまう「技術」だ。

 メーカーは、いかに自身が画質にこだわっているかを消費者に訴えてきた。ほんのわずかな色の差を言い立て、動画の鮮明さをアピールし、解像度を誇った。だが、人が並べて見てもにわかには判別できないような画質の差を追求する技術者たちが、丸い月や自動車の車輪が楕円にしか写らない画面をどうして許せるのだろうか。

 さらに悪いことに、画面の中心部と周辺部で伸縮比率を変える機能や、字幕が入るとトリミングを変える機能なども入っているらしい。このようなテレビで画面の下方にテロップが流れるような番組を見ると最悪だ。テロップが流れるたびに、ガクガクと画面が切り替わる。しかも、文字は流れるにつれ、伸びて縮んでまた伸びて・・・。

 ちなみに筆者は、画面の左右が黒い帯となる「ノーマルモード」を使い、この事態を避けている。だが、実家に行くと、あの「無理やり横長引き伸ばし画面」のままになっていた。「気持ち悪くない?」と聞くと「気持ち悪い」という。直す方法があることを教えるが「やり方がわからない」らしい。「それに、もう慣れちゃったし」と。

 そのとき味わったのは、ちょっとした不幸感である。ほんのちょっとした。でもこれが積み重なって不信感を生み、それが膨張して理系離れを促進し、技術者から活力を奪い、技術開発を停滞させ、やがて日本は…。

 花見の時期にふと抱いた杞憂である。そう思いたい。

本稿は、技術経営メールにも掲載しています。技術経営メールは、イノベーションのための技術経営戦略誌『日経ビズテック』プロジェクトの一環で配信されています。