樂家では、代々が原料の粘土を採取し、それを寝かせて3代後に使うことになっている。当主が使っている粘土は、明治期に活躍した12代吉左衛門が採取した土である。釉薬の原料も、代々が採取して次代に譲る。窯も父祖代々が使ってきたものを使う。その他の道具も、代々が作り後代に伝えていく。

つまり、必要なものはすべて譲られる。「樂焼とは何か」ということについては、使い手という立場で自然に学ばされる。幼時から、日々の生活で樂家代々の作品を使わせるのである。ただし、茶碗の作り方に関しては何一つとして教えられない。作り方はもちろん、釉薬の調合すら教えてはもらえない。そればかりは代々が、「樂家の後継者」という、とてつもない重荷に耐えながら、自ら模索し発見するしかないのである。「一子相伝とは伝えないことなのです」と吉左衛門さんはいう。

この話を聞いて、思い出したのが、江戸時代を通じて絶大な勢力を維持し続けた画家集団、狩野派のことだった。彼らの「伝承のスタイル」は、樂家とはまったく逆である。つまり、徹底して伝えるのだ。

狩野探幽など江戸初期の傑出した狩野派の画家は、自ら古今の絵画を研究し、そこからひとつの様式を生み出し、巧みにマニュアル化した。たとえ子孫が画家としての資質を備えていなくても、マニュアルに従ってある程度の訓練を積めば狩野派様式の絵が描けるような仕組みを構築したのである。

この結果、狩野家は分家を繰り返して勢力を広げ、弟子も多数養成して、江戸時代の絵画界で覇をとなえることになる。ただし、それらの絵画は、創作的要素に乏しく、代を経ても作風が大きく変化することはない。署名がなければ何代の作品かを区別することも容易ではない。それでも、将軍家が狩野派をお抱え絵師としたことから各大名がこれに追従し、当時は狩野派の絵が大いに尊重されたらしい。けれど、今日における評価は、かの時代に比べれば低くなったといえるだろう。

この、二つのやり方に名前をつけるとすれば、「スキル型」と「テクノロジー型」といったところか。スキルは人と不可分だが、テクノロジーは人から分離可能で、文字情報などをもって他の人に複製を植え付けることができるものである。

狩野派の場合は、これまでその総体がスキルと思われていた「画業」というものを極力テクノロジー化することで、空間的、時間的に広く伝播させることが可能したのだと、私は考えている。一方の樂家は、多くの部分はテクノロジー化できるのだろうが、あえてそうはせず、代々はそれをスキルとして一代限りのものにしているのである。

日本語のややこしいところは、スキルもテクノロジーもひっくるめて「技術」と一言で呼んでしまいがちなことだ。しかし、このテクノロジーとスキルを区別して考えるということは、ものづくりを考える上で非常に大切なことだと思う。

その認識のうえで最近の論調をみれば、個人に属するスキルやノウハウは極力テクノロジー化して共有し、事業を展開しやすく、継承しやすくしよう、という考えが主流を占めているように感じる。私も「工業的なものづくりは徹頭徹尾、テクノロジーでいくべきだ」と、ずっと考えてきた。けれど、もしかするとそれは青臭い潔癖さゆえの思い込みだったのかもしれない。狩野派が創造性や時代感覚を失い、やがては硬直した様式に堕ちていったように、すべてを伝えられるかということが、ひょっとしたら何かを失わせるのではないか。

「伝えないことの大切さ」ということもあるのではないか。そう思い始めている。