労働者=消費者

 例えば,評論家の柄谷行人氏は『世界共和国へ』(岩波新書,2006年6月)という本の中で「イギリスで産業資本主義が起こったのは,商人とギルド的な職人がいた都市ではなく,農村の近傍に形成された新しい都市=市場です」と書いている(本書p.139)。労働者がものを作るとともに,他の企業の労働者がつくったものを買い戻すことによって市場を作ってきたのである。

 つまり,イノベーションによる「差異」とは,イノベーションの担い手である企業の労働者自身が,自分たちのつくったものが「欲しい」というユーザーニーズによって成り立っているのである。

 このことは当たり前のようだが,筆者の眼には新鮮に映った。というのは最近,多くの国内企業がひょっとして自分で自分の首を絞めているのではないか,と思うことが増えているからだ。利潤を増やすために,社員の労働時間を増やして賃金を抑制している。しかし,そうすればするほど,社員にはものを買い戻す余裕がなくなっていくという「ジレンマ」を抱えているのは明らかである。

 さらに思うのは,「こんなものが欲しい」というユーザーニーズは,「余裕」があってこそ生まれるものではないか,ということである。ユーザーが求めるものを必死に探し求めて,イノベーションを起こそうと,頑張って土日もなく残業をするほど,かえって社会全体としてはイノベーションの活力が落ちていく,ということにならなければいいのだが…。

「差異化の飽和点」

 これに関連して,柄谷氏の著作からもう一つキーワードを挙げたい。それは「差異化の飽和点」である。同氏は,近年急速に進展しているグローバル化は,先進国の国内市場で差異化が飽和点に達してきていることから,世界市場に目を向けた結果だと論じている。「それは,新たな『労働力商品』,つまり,膨大な労働者=消費者を見いだすことにほかなりません」(本書p.150)。

 このように製造業が新興国に打って出るのは必然の流れのようではあるが,では先進国の国内市場で「差異化の飽和点」を脱する道をはないのだろうか。それを考える上で参考にしたいのが,かなり前に書かれた本で恐縮だが,経済学者の岩井克人氏の書いた『ヴェニスの商人の資本論』(筑摩書房,1985年)である。

 岩井氏は,この本の中に収められた「キャベツ人形の資本主義」というエッセイの中で,資本主義社会における人間のモノに対する欲望はどこから生まれてくるのかを考察している。「キャベツ人形」とは,一体ごとに顔や目の色を変えて差異化し,購入した客が「養子縁組書」を送って疑似的な赤ちゃんとして愛玩するという商品であり,爆発的にヒットした。

 キャベツ人形がヒットした理由については諸説ある。赤ちゃんをかわいがるという人間の本能的な衝動からくるという動物行動学的な説や,出生にまつわるコンプレックスからくるという精神分析的な説などである。しかしそれらの説を岩井氏は紹介した上で否定し,それはモノをモノとして所有するためではなく,モノを持つことによって他者に認められたいという社会的な欲望を満たせるからだ,と見る。さらに,この社会的欲望には「他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と,他人との差異を際立たせて自己の独自性を認めてもらいたい差異化の欲望との二つの形態がある」(本書p.73)。

 岩井氏はこの二つの欲望による消費行動のメカニズムを次のように見る。「誰かが差異性という価値を持った商品を買い,差異化への欲望を満たす」→「それをまだ買っていない他の人々がそれに価値を見い出し,模倣への社会的欲望を引き起こし,購買する」→「模倣の群によって商品のブームが生まれるが,その中で差異性の価値は失われる」→「新たな差異性という価値を持った商品を探し求める」――。

差異化→模倣…の永久運動

 つまり,消費者は,差異化→模倣→差異化→模倣…を延々と続けることを運命付けられていると見ることができる。とここまで書いてきて,前述した企業側の「イノベーション→模倣→イノベーション→模倣…」と同じような状況であることに気付く。

 岩井氏は次のように書く(同書p.75)。

 企業の側の新商品導入による利潤創出の要請と,消費者の側の新商品購入による差異化への欲望とは,お互いがお互いを必要とする相乗作用によって,差異化と模倣の反復の速度を加速度的に上昇させていく。そして,この反復の速度が光の速度に接近する漸近線上に,われわれは再びあのキャベツ人形を見い出すのである。

 ここで言う,「お互いがお互いを必要とする相乗作用」が,冒頭で紹介したコメントの中にあった,「イノベーションはユーザーニーズとすり合わせが出来たときに起きる」ということとほぼ同義ではないかと思う。

 つまり,イノベーションは,消費者に差異化の欲望をかきたてるものでなくてはならないのである。そして「差異化と模倣の反復の速度」が上がることによって,企業側はより大きな差異化を示す必要に迫られている。

 その大きな差異化をどのようにして作り出していくのか。ブランド戦略などマーケティング分野で頑張るのも重要だと思うが,やはり決定的なのは企業側が今までにないイノベーションをどんどん生み出していくことであろう。

「知識」が利潤の源泉