世界レベルで勝負したい

 自信がついてくると、新たな分野で勝負したいと思うようになってきました。オフィスコンピュータは、市場が日本国内に限られる製品でした。自分が手がけた製品に対する自信はあるけれども、それが世界レベルでどの程度にあるものなのか、自分の実力がどれほどのものなのか、海外で勝負してみたいと思うようになってきたのです。

 上司に希望を伝え続けてから約1年後、米国のHAL Computer Systems社に出向することになりました。HAL Computer社は富士通の当時の子会社のベンチャー企業です。このように米国に渡ったのは良いものの、英語がまったく通じずに苦労しました。

 ただし、CPUの回路図や作り方など技術的な内容は万国共通です。新人時代に戻ったつもりで、同僚が作った回路図を見て、間違いを指摘したり、「わたしならこんな手法を使う」といった議論を吹っかけたりするうちに、設計を任されるようになっていきました。米国では30歳代のほとんどを過ごしました。

100倍の高性能化に挑戦

 日本に戻ってきてからもCPUの開発に取り組みました。富士通は当時、米IBM社や米Sun Microsystems社(現・米Oracle社)などと競合していました。中でも、一番の競合がSun社でした。われわれのCPUを使った方がSun社の製品を使うよりも、同じプログラムが速く動くことを売りにしていました。そんなある日、富士通がSun社と提携することを伝えられ、驚きました。昨日の敵が明日の友になったのですが、両社で命令セットの設計を共通化しながら、それぞれ個別にCPUを作って切磋琢磨していく、良い関係を築きあうことができました。

 その後、京のCPUの開発にかかわることになります。これも突然、「世界一のスーパーコンピュータを作る」という構想を聞いて、驚きました。われわれにも、スーパーコンピュータ用のCPUを作った経験がありましたが、その時のスーパーコンピュータの性能は京が目標とする性能の約1/100に過ぎなかったからです。

 当時は「100倍も高い性能のスーパーコンピュータを作るのは無理がある」と思っていました。しかし、高い技術目標を掲げることは、やはり大事でした。取り組んでいるうちに、この挑戦が知れ渡り、社内から多くの技術者が「かかわりたい」と名乗り出てきたからです。

 2006年当初は社内でも非公式な取り組みでしたが、しばらくして社内に正式な組織が発足しました。その後、約2年間かけてCPUの設計を終えました。